和のあぶら

油と地蔵信仰 その4(奈良の地蔵1)

奈良古市町の油掛地蔵(別称:子授け地蔵・鼻かけ地蔵)

蕓 苔 子(うんたいし)

地蔵案内

上ツ道古市の交差点に立つ地蔵案内

古市油掛地蔵尊の御堂

古市油掛地蔵尊の御堂

【そこは平城京の外れ洛外であった】
和銅3年3月(710年)元明天皇は都を藤原京から中国・唐の長安城を模して作ったといわれる壮大な平城京へ遷都。その藤原京から平城京の大和平野を南北に貫く「下ツ道(しもつみち)、中ツ道(なかつみち)、上ツ道(かみつみち)」の三本の古代新幹線道路・街道が進む。先ず、「下ツ道」(現国道24号線)は平城京の朱雀門から朱雀大路を真っ直ぐに羅城門に至り更に更にと南下すると藤原京に到達する道である。「上ツ道」は左京(外京げきょう)東七坊大路にあたり現在の国道169号線。
この国道を車で南下し東大寺・興福寺を過ぎ、能登川と岩井川を越えた処の交差点に「油掛地蔵」の立て看板が見えた。早速、左折れ(東へ)しばらくのろのろと車を進め、このあたりの住宅街の中に油掛地蔵堂がある筈だがと探してみたが、なかなか見当たらず、近所の年配の夫人にお聞きしたところ親切に教えて頂け大助かりであった。話がそれるが、左折れのまま突当る辺りが「高円の杜(たかまどのもり)」と称され、鬱蒼とした森の中に「奈良県護国神社」がある。広い境内には沢山の見事な椿が植えられ、春の椿祭りの頃はさぞかし見事であろう。

さて話は戻るがこの地蔵尊のある「古市町」・・ここは、その昔平城京の境涯であったとか・・、、またここ古市町の北側は「(京終町)きょうばて町」・・直ぐに覚えられそうなユニークな地名もそのまま残っている。又、西側に行くと「中ツ道(なかつみち)」(左京東4坊大路)があり、その先には官営の「市」で左京の「東市(ひがしいち)」右京の「西市(にしいち)」があって共に大いに賑わったそうである。しかし、古市一帯は洛外、春日山から続く高円山(たかまどやま)の裾野に当たるここ岩井川沿いは長閑な田舎であったようである。ところで、この時代は仏教がようやく広まり始めた頃、更に地蔵信仰が始まるのはずっと時代も下がり鎌倉時代・・・庶民の間に広く伝播したのは室町の世あたり・・・と、遠い昔の平城(なら)の京(みやこ)の人々の暮らしにしばし思いを馳せながら空想に耽ったことである。
黒川道祐(?~1691):江戸初期の安芸国儒医で名を元逸といった。儒を林羅山に学び、医を堀杏庵に学んだと伝えられる。擁州府志・近世京都案内・日次紀事などの著書あり

鼻欠け地蔵

別名「鼻欠け地蔵」とも呼ばれている

火守りのおばあちゃん

火守りのおばあちゃん

【“どんぶらこ、どんぶらこ”と流れ着いた油掛地蔵さん】
先ずは、古市町の油掛地蔵さんに関わる「言い伝え」を紹介することとしたい「古市町の地蔵講の説明文」より
『このお地蔵さんは「子授け地蔵」として古くから信仰されています。昔、大雨が降り続き、直ぐ北を流れる岩井川が溢れた時、このお地蔵さんが河上から浮きつ沈みつしながら流れて来ました。見つけた人が引き上げようとしました、信心が浅く上がらなかった。ところが信心深い老人が何の苦もなく引き上げると、その夜、地蔵さんが夢枕に立って「わしは子を授ける地蔵だ、毎日種油をかけてお参りすれば、必ず子を授ける」とお告げになりました。それから老人はお告げのとおり毎日種油をかけて拝んでいると、おばあさんに可愛い子が授かりました。その話が伝わって遠くから子供の欲しい人たちがお参りに来るようになったと云われています。
また、このお地蔵さんは、「鼻かけ地蔵」とも呼ばれています。昔、藤堂氏の城下で相撲があったときに奈良の力士が「是非勝たせてください」と祈ったが負けてしまいました。力士は怒って地蔵さんを石で殴りつけたので鼻が欠けてしまった。ところが力士も帰り道で倒れて鼻を打って死んでしまったといわれています。』
今でも古市町の人々は“一日はお地蔵さん参りから始まる”と言い、ご近所さんが次々と地蔵堂を訪れお燈明の蝋燭や線香も絶やさない由。皆で大切にお守りしている様子がうかがえ気持ちのよい思いであった。

【油をかけて水害のないことを願ったのか・・・】
さて、ここに書かれている「言い伝え」の時代考証をしてみるに、先ず、水害等災害では奈良市災害編年史によれば岩井川の氾濫は室町時代の中頃に2回もあったと記録されている。長禄3年3月10日(1459年)岩井川の橋が落ちたとのこと(経覚私要鈔)。さらに、文明14年6月1日(1482年)10日間も雨が降り続き、被害続出、命を落とす人も出たそうだ(大乗院寺社雑事記)・・・等々から人々の間に水害や死から逃れ現世利益を求める地蔵信仰が急速に広まったのではなかろうか。また油をかけることは「油が水を弾く」ことからも水害が起きないようにとの庶民の切ない願いか・・などとも想像できる。
さらに、明応8年5月12日(1499年)「比三四日岩井川石地蔵ユルカレ給、誠不思議也」と大乗院寺社雑事記(大乗院第17代門跡尋尊の日記)に書かれている。この事からも既に室町の世には地蔵尊が古市町に安置され信仰されていた事が十分に覗える。そんな言い伝えが人々の間で膾炙されながら江戸時代になって菜種油が登場したり伊賀藩の藤堂家が登場しつつ伝承されてきたのであろう。昭和58年から62年にかけて奈良市教育委員会によって石像文化財の調査が行われており、それによっても古市町の油掛地蔵尊は錫杖や宝珠を持ち室町時代の作であることが判明している

奈良市石像物調査報告書による
「総高:196cm 像高:153cm 幅:49cm 厚さ:32cm 年代:室町時代」

御灯明

お地蔵さんの脇の道祖神や石仏にも御灯明

御燈明

信奉者が訪れ御燈明も絶えない

【油掛地蔵さんの歌があった】
油掛地蔵さんの歌。奈良市音声館々長 荒井敦子氏の作詞・作曲を紹介しましょう。
歌詞のみの紹介ですが・・

あぶらかけじぞうさんに おまいりに
どーぞ えーこ ができますように
あぶらかけて がんかけて
みんなのねがいをかなえましょう
かなえましょう

お地蔵さんのあたたかい温もりと毎日お守りしている人々の心情に触れ、気持ちのいい探訪であった。次回も引き続き、奈良の油掛地蔵さん・・・どーぞ お楽しみに!


「古市」の町名由来について・・
「奈良県の歴史」永島福太郎著 山川出版社より
鎌倉時代、興福寺支配の南都七郷のうち大乗院門跡が南方の領地を所領した。その後、元興寺郷の一部をにぎり更に所領は南に広がった、門跡は常設市場をひらき市屋形を設けた、14世紀初頭に大乗院門跡郷の南市は近郷の福島市を移したもので旧市を古市と称したという伝えがある。

参考資料
古代都市平城京の世界 館野和己著 山川出版社
私たちの油掛地蔵さん 古市隣保館編集
掘り出された奈良の都 青山 茂著 河出書房新社
橘美千代 津田由伎子著 学生出版