和のあぶら

油と地蔵信仰 その2 伏見油懸山地蔵院西岸寺(続編)

蕓 苔 子(うんたいし)

油掛地蔵尊入口

下油掛町油掛通りの油掛地蔵尊入口

京阪電車の中書島駅を降り、龍馬通りと書かれた商店街を通り、掘り割りに架かる蓬莱橋を渡ると、左手に龍馬襲撃で有名な旅籠の寺田屋が見える。更に商店街を進み油掛通りに出るので左折すると、右側かなたに油懸地蔵尊の赤い幟が見える。


芭蕉翁の句碑

芭蕉翁の句碑
貞京2年3月任口上人を訪ね詠んだ
「我衣に伏見の桃の雫せよ

見過ごしそうな狭い路地に入ると、左側に油懸地蔵堂と芭蕉翁の句碑が石囲いの中に建っている。その他には墓所と住職の母屋だけで、鎌倉時代以降明治維新まで、かってここに広大な敷地と、油懸け信仰の地蔵院や多くの堂宇があったのかと思うと時代の変遷を深く感じた。

【荏胡麻油で国盗りの夢か“蝮の道三”と伏見油懸地蔵さん】
ところで、「伏見院」のことで調査していましたら、奇しくも西岸寺の北上あたりで伏見駅の南側に「奈良屋町」と言う町名がとても気になった。たしか、どこかで見憶えがあったなあーと、本棚から司馬遼太郎の「国盗り物語」を取り出し読み返してみた。戦国の世、“蝮の道三”と恐れられた美濃の国主、斎藤道三が若き頃、京都の油屋「奈良屋」を舞台に繰り広げる「松波庄九郎」の活躍、残念ながら小説の「奈良屋」は「京の東の洞院二条(御所の近く)」、だがしばし待てよ・・・と読み返すと、永正14年(1517年)の初秋、「松波庄九郎」率いる「奈良屋」の「荏胡麻」買付隊商ら八百余人が京を出発。1泊目は山城の国大山崎、山崎八幡宮から「八幡大菩薩」の旗指物一流と、関所手形などをもらい翌朝いよいよ西国街道を西へ西への旅、道中山賊化した土豪を退治しながら、目的地備前の国福岡の庄に到着、ここを中心に荏胡麻の大量買付。その間、松波庄九郎こと後の斎藤道三は備前一国の調べなどは言うまでもあるまい。帰路はその大量に買付けた荏胡麻を船に積み、関料免除の「胡麻船」で瀬戸内から淀川を遡り伏見の港に帰着。想像ではあるが、ひょっとして買付けた荏胡麻の荷揚げと一時保管の目的で、ここ伏見に奈良屋の出店と倉庫があったのではなかろうか・・・それで「奈良屋町」と町名がついたのでは・・・などと考えたりもしたことでした。

油商人の願掛けの額

油商人の願掛けの額
商売繁盛・大願成就を願っている

そして、また斎藤道三こと松波庄九郎は美濃と京の間を何度も往来しつつ、何を考えていたのだろうか・・・多分片や在京油神人として油懸地蔵尊に油を懸けながら “商売繁昌”を願い、方や一国一城の“国盗り”の“大願成就”を願ったのであろう・・・・などと想像したりして一人わくわく心踊りしたことでした。

≪老人雑話曰 斎藤山城守は山崎の油売りの子なり云々(搾油濫觴:文化7年:衢重兵衛著)より≫

【維新の風雲児「坂本龍馬」は西岸寺さんを駆け抜けたか】
西岸寺との関わりでもう一つ取り上げたいのが維新の風雲児「坂本龍馬」。結論から申し上げると、龍馬が寺田屋で襲われた際に油懸地蔵の西岸寺境内を隠れながら逃れたのではなかろうかと言うことである。多くの龍馬資料の中から「坂本龍馬辞典(新人物往来社)」の「お龍後日談」「三吉慎蔵日記」「坂本龍馬年譜」などを参考に忠実に記述して見た。

慶応2年1月19日大坂ら長州三吉慎蔵と薩摩藩の船印を揚げ淀川を遡航。沿岸の警戒厳重、無事に伏見寺田屋に入る。20・21日三吉を寺田屋に残し、池・新宮を伴い入京。二本松薩摩藩に桂を訪れる。桂の帰国決意を聞き西郷に会い、薩摩の誠意なき態度を責める。 龍馬の激怒に西郷ようやく翻意。22日小松・西郷・桂・龍馬会談『薩長同盟』の密約なる。23日桂、帰国の途中、大坂から盟約6か条を記した書簡を龍馬に送り、確認の裏書を求める。同夜、単身寺田屋に帰り三吉に首尾を告げる。24日八ツ半(午前3時)ごろ、伏見奉行配下の捕吏寺田屋を包囲、入浴中のお龍が気づいて急を知らせ、三吉は手槍で応戦、龍馬は高杉(小松帯刀か?)から送られたピストルで応戦したが斬り合いの中、右手指を切られ負傷した。捕吏のひるむ隙を見て裏口の物置を抜け、隣家の雨戸を蹴破り家の中を駆け抜け後ろの町に出た(西岸寺の門前)二人は夢中で五、六町突っ走り、川端(新土佐堀り)の材木小屋があるのを見つけ、その棚の上に両人密かに潜み、、三吉は草鞋を拾い旅人の姿に身をやつし伏見の薩摩屋敷に急報。その間、お龍も伏見薩摩藩邸へ報せ、薩摩藩士留守大山弥八らの出した船で救出された。
(龍馬等が逃げ込んだ材木小屋は寺田屋の約400㍍北、大手筋竹田街道西入ル南側あたりと推定されるが跡形もない。)

龍馬の用心深さの一面として、慶応2年9月に高知時代の剣術師範の白根野弁治に寺田屋遭難事件で九死に一生を得たことで「僕、寺田屋に宿す毎に屋敷の地形を暗んず故に活路を得たり」と「剣術の奥義:捨目の術」を伝授して貰ったことを謝しています。また、遭難の1ヶ月前、京都土佐藩邸にいた同士望月清平に宿所のことで発信している。「然るに小弟宿の事、色々たずね候得ども何分無之候所」「四条ポント町位(近江屋)に居ては用心悪しく候」とは言っても周りが心配して藩邸に入れと薦めたが「土佐藩邸には入るにあたはず(脱藩の罪)二本松邸(薩摩藩邸)に身をひそめ候は実にいやみで候」と記している。しかし結局、龍馬はその近江屋で慶応3年9月15日刺客に襲われ暗殺されており、「捨目の術」を要するに始を慎み、終を慎まざるの遺憾なしとせずと、龍馬傳では評価されている。
(佐々木家像蔵書「坂本龍馬傳」、高知文教協会「龍馬書簡」の記述による)

伏見は淀川を遡って陸路東海道を江戸に行く西国大名の上陸地点であり、多くの大名屋敷、倉庫、旅籠が出来ていた。高瀬船、三十石船、淀船、今井船が集まり、参勤交代、伊勢参宮、京見物、大坂下りなど多くの人が出入りし、酒、油、米、炭、薪が荷捌きされ活気があった。宇治川から伏見の市街地に入る南浜町は東・中・西の南浜三町に別れ東部に土佐藩邸(松平土佐守屋敷)があった。(寛文10年(1670年)山城国伏見街衢並近郊図による)伏見勤番の土佐藩士の中には伏見に定住するものもあり、菩提寺として或いは墓所として西岸寺を利用していた事が分かっている。殊に維新後は藩士の中には国許に帰るものもあったが、税の計算や徴収に秀でた人が多かったため新政府に採用された藩士も多数いたようである。維新を締めくくった鳥羽伏見の戦いで堂宇は焼失したが寺の古文書や戒名・過去帳は持ち出され焼失が免れていたため判明したのである。(西岸寺の吉田住職さんより拝聴)。

龍馬にしても同郷の藩士が多くおり、ましてや寺田屋の裏手は西岸寺、1600坪も広大な土佐藩士の菩提寺・墓所ともなれば万が一の逃げ道と考えていたに違いない。また、伏見の町は太閤以来の城下町、所々道が行き当りになって入り組んでおり、これが「四ツ辻の四ツ当り」と言われている。

油懸地蔵尊

油懸地蔵尊
お正月は胡麻香油をお掛けするそうです

油懸地蔵尊の御堂

油懸地蔵尊の御堂

5~6町逃げてももう表通り、出ればすぐ幕吏に見つかる恐れもあり、そこは勝手知ったる寺田屋界隈、西岸寺の境内に逃げ込んだとしても納得である。そして“俺はこんな事ではマッコト死なれんゾヨ”なんて云って、龍馬さんは油懸地蔵様にも油を懸けたんでしょうかね・・・・などと
住職の吉田さんにお話ししてみたら住職もニコニコ笑って聞いておられた。遥か昔の郷愁に思いを馳せたことでした。


 

参考書籍:搾油濫觴:日本植物油脂(辻本満丸著)丸善株式会社
国盗り物語(司馬遼太郎著)新潮文庫
坂本龍馬のすべてがわかる本(風巻絃一著)三笠書房
「坂本龍馬辞典」新人物往来社
特集「坂本龍馬の独創」新人物往来社
京都の旅(松本清張・樋口清之)光文社
京都の地名:平凡社