和のあぶら

油と地蔵信仰 その1 伏見油懸山地蔵院西岸寺

蕓 苔 子(うんたいし)

下丸屋町お地蔵さん

【下丸屋町お地蔵さん】
山中油店のある町内のお地蔵さん。家と家との間にしっかりはさまれて、町並みに溶け込んでいます。

櫛笥町お地蔵さん

【櫛笥町お地蔵さん】
 これは「くしげちょう」と呼びます

元中務町お地蔵さん

【元中務町お地蔵さん】
時々猫が入り込み、石の屋根の上でよく居眠りしています。居心地がいいのかなぁ。

【お地蔵さんのミニ知識】
『地蔵殿の名字』と言われるほど、名前の多い菩薩様は地蔵菩薩様をおいて他にないでしょう。人名・地名・伝説・霊験・方位・姿・形・利益等々からいろいろな名前が付けられています。お釈迦様が没して弥勒様が出生するまでの56億7千万年の間は、仏様のいない「末法の世」となり、その間は地蔵菩薩様が六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を輪廻して苦しむ衆生を救済されておられると言われております。 平安時代後期 にはこうした末法思想の中、浄土信仰が広まり、貴族の間には浄土へ往生するため競って造寺・造仏や写経などの功徳を積んだりしました。それも出来ない当時の庶民の間では、死後の地獄の恐怖は切実で人々の苦を身代わりになって受けてくださる地蔵菩薩様への信仰が急速に広まったようです。 因みに、お地蔵様はあらゆる場所に人々に親しみ易い僧形となって現れ、左手に宝珠を捧げ右手は錫杖を握っておられます。 錫杖を持つのは六道をめぐり衆生を救済して行脚するお姿であり庶民はどれほど救われたことでしょう。 地蔵様の梵名「Ksitigarbha:クシチガルブハ」は「大地・地霊の童子・胎児・神児」を意味し「大地の蔵する力を象徴」していると言われております。 今回は、中でも貴重な油をそそぎ必死に願をかけ祈ったお地蔵様に焦点を当てて見たいと思います。


天秤町お地蔵さん

【天秤町お地蔵さん】
各町内でお地蔵さんは大事にされています。そしてお地蔵さんも住民を守ってくださっているのです。

田中町お地蔵さん

【田中町お地蔵さん】
いろんな形で祀られ、いろんなところにあり、このあたりに住む私たちの日常に なくてはならぬ存在なのです。

【油懸地蔵さんで有名な伏見の西岸寺さん】
江戸時代の名所案内図『拾遺都名所図会』に『むかし、山崎に住いする油商人有り。ある時、油を担うて此門前を過ぐるに、忽ち転びて油を流す。 周章して担桶を見れば、余残幾もなし。只,茫然として立ち居たり。暫くして、つくづく思ふやうは、是命なり、若ししからずんば災害あらん、 帰りさらんにはしかずとし、残る所の油を以て、此石仏に潅いで、一念の残執なく帰りけり、それより、幸日々に栄えて、大福長者となりぬ。 是より世に伝えて、願望ある輩は油を懸けて、諸願を祈るに、今なほ霊験新なり』とあります。それが世に伝わり諸願成就の油懸地蔵尊として人々に 親しまれた由です。また、境内には松尾芭蕉翁が貞享2年(1685年)三月上旬、この寺の任口上人の高徳を慕って訪ねた際に、出会いの喜びを当時、 伏見の名物であった桃にことよせて詠んだ「我衣に伏見の桃の雫せよ」の句碑が地蔵堂の右側に建立されています。西岸寺は淀川を往来する伏見の 船着場に近く、上人を慕って西鶴や其角、季吟、意朔など当時の著名な俳人も西岸寺に足をとめたようです。 (地蔵を詠んだ句として 意朔:本尊に油かけたかほととぎす、亀郷:木枯や油からびし石地蔵、成美:白けしに油かけけり辻地蔵などが知られています) もともと、西岸寺のご本尊は定朝作の阿弥陀如来様であったとのこと、正応三年(1290年)伏見天皇が里三栖(伏見区下三栖) 船戸御所の地蔵尊を篤く信奉なされ不思議な霊験(油にまつわること?)を得たとのこと、 その後、文保元年(1317年)花園天皇の時、当山の現在地に有った別御殿を下賜され、その上、里三栖に有った地像尊を遷され壮麗な堂宇を 建立されたと言われています。また、永禄年間(1558~1570年)には相模の国小田原の僧  雲海上人西蓮社岸誉が、この寺を増築し、 当時は浄域千六百余坪もある大寺院であったようです。そして、天正18年(1590年)には浄土宗と定め、油懸山地蔵院西岸寺と公称しました。 その後、鳥羽伏見の戦では堂宇も全て灰燼に帰しましたが、昭和53年に地蔵堂を再建し現在に至っているようです。寺号は上人の名に由来し、 山号も昔から続いた油懸けの風習から油懸山となり、太閤の城下町ができる頃は今の町名(油掛町)の由来ともなった由です。

中村町お地蔵さん

【中村町お地蔵さん】
周りの様子が移り変わっても、変わらぬ姿で残されています。

北中務町お地蔵さん

【北中務町お地蔵さん】
どこのお地蔵さんもきちんとお掃除され、お水、お花が絶やされません。こんな心をいつまでも伝えたいものです。

【”油の神様”大山崎八幡宮さんとのかかわりは有ったのだろうか】
花園天皇は「伏見院」と呼ばれ、大山崎神人の申請に依って、応長年間(1311年)には「阿波国吉野川新関料」を停止するよう伏見院院宣が 出されており、正和三年(1314年)八月には「六波羅探題」を通じ「淀川に於ける胡麻船関料免除」を奏上し院宣を賜っています。 ついで10月には「関東御教書」が下され「内殿燈油備進」としての「諸関津料免除」の特権まで保証されていました。 この時期、大山崎の神人勢力が急速に拡大した時期でもあったはずです。(鎌倉時代以降200年間は大山崎油神人の最盛期であったと 言えましょう)
伏見天皇の信奉された地蔵尊の不思議な油にまつわる霊験、その後伏見院の大山崎への手厚い庇護、 地蔵尊をかっては伏見院の別御殿であった西岸寺に移遷された事など、どれもが油との関わりが大きかったことが感じられます。 この頃から大山崎の油神人は大事な商品である「御神油:当時は荏胡麻油?」を地蔵尊に掛けることで「伏見院」の庇護に感謝し、 大山崎の益々の発展を祈願したのではないでしょうか。そんな風にでも考えないと、当時お燈明用以外庶民の口にも届かなかった貴重な高価な油を 安易に掛ける風習など続いていたとは到底考えられません。また、天皇ゆかりの地蔵尊に油を懸ける風習が山崎の「本所神人」の間に伝わり、 いつとも無く「大山崎住京神人」にも広まり油商人は競って大切な「御油」を懸けて諸願成就を願ったことでしょう。] その後、時代も移り世間に油がいきわたりはじめ、油を懸け“願”掛けする風習も家内安全・商売繁昌・願望成就と広がりをみせ、 特に商家の間で人気が高まっていったようです。
(次号も西岸寺の続編あり、お楽しみに)

参考文献
伏見油懸地蔵(西岸寺)案内パンフレットより
新編日本地蔵辞典、京都の地名・平凡社、
上方史跡散策:淀川往来・向陽書房
目で見る仏像・菩薩(田中義恭子・星山晋也編著)東京美術
暮らしの中の神さん仏さん(岩井宏實著)文化出版局
離宮八幡宮史(魚住惣五郎・沢井浩三著)
離宮八幡宮遷座千百年記念奉賛会