山中油店が今の地で創業したのは、江戸時代後期の文政年間(1818-1830)。
初代・平兵衛は、醤油製造業の生家から分家し、その隣に店を構えます。
しかし、「2軒続けて同じ醤油屋をしていたのでは。。。」ということで
その当時、時として行われたそうですが、親戚と「商売替え」をして
油屋を営むことになったのだそうです。
つまり、油屋をしていた親戚が醤油屋になり、
醤油屋から分家した平兵衛は油屋となったのが今から約200年前のこと。
その名残で今でも「やまこうじ」と呼ぶ
山型の下に「麹」の文字が書かれた
商標を使用しています。
「暖簾に書かれた文字は何ですか?」
「油屋さんと麹は関係あるんですか?」
とよくたずねられますが、
こんな訳があったのです。
私どもは、創業した当初から、製造はいたしておりません。
油商として、歴史を重ねてまいりました。
それはなぜかというと・・・
この図は「製油禄」(国立国会図書館蔵)と言い、
江戸時代の搾油の様子を描いたものです。
「立木」と呼ばれる製油機で、
菜種油を焙煎してから搾っていました。
ふたりがかりで楔(くさび)を打ち込み、
横にセットされた大きな木が下がることにより、
その下の中央部にある臼に入れられた菜種から
油を搾りだすというものです。
楔を打つ音が一日中鳴り響き、
菜種の焙煎臭も立ち込めていました。
江戸時代の搾油は、こんなに大変で、音も臭いもしたため、
山中油店があるような住宅密集地では到底製造することができないため、
郊外で搾られた油を仕入れて販売する、油商人として歴史を重ねてきたのです。
その当時、菜種油はお燈明用の油として販売されていました。
山中油店に今も掲げられているこの看板には
「神佛燈明売捌処(しんぶつとうみょううりさばきどころ)」
と書かれています。
神様仏様に捧げるお燈明用の油を販売しているところです、
という意味です。
「あぶら」と言えば「食用」のイメージが先行しますが、
江戸時代、菜種油は贅沢品で、
食用というより、灯り用、神仏用として大切に使われていました。
これから、油の歴史、山中油店の歴史について紹介してまいります。
深くて面白いあぶらの世界に誘います。どうかお楽しみに!
Mme. K