今も柱に残る刀傷。ばったり床几は歴史の目撃者

エッセイスト 湧月りろ

 

山中油店さんがあるのは、二条城の北、京都の街中を東西に走る下立売通り。
「水車が回る大きな京町家」と言えば誰でもわかるほど、その店構えは昔から京都の人々に親しまれてきた。
入り口の右側には“ばったり床几”と呼ばれる小さなスペースがある。
その名の通り、ばったりと折りたためる床几、今で言う木製ベンチのようなもので、ちょこっと腰かけたり、物を置いたりできる大変便利な京町家の設備だ。

じつはここに注目すべき歴史の秘密があることを、社長の浅原孝さんが教えてくださった。
いつも優しい笑顔で気さくに話しかけてくださる社長さんのお話しによると、
床几の脇の柱にあるちょっとした凹みがなんと、長州藩士によって付けられた“刀傷”だというのだからまったく驚いてしまう。
さすが、築200年の建物ともなると歴史の奥深さもレベル違いだ。

ここに刀傷が残された事の顛末を紹介しよう。

 

 

 

 

 

 

 

時は江戸末期にさかのぼり、1864年7月19日未明のこと。

「池田屋事件」が呼び水となり、御所を奪還しようと立ち上がった長州藩士たちは、山崎天王山、伏見長州藩邸、嵯峨天龍寺の三カ所に陣を張り、いざ、御所へと攻め込んだ。
藩内きっての豪傑、来島又兵衛が率いる総勢500人に及ぶ兵は嵯峨天龍寺を出立し、下立売通りを東に進み、まさにここ山中油店の前を通ってまっすぐ御所の下立売門へ突入したのである。
軍はその北側にある蛤御門付近まで破竹の勢いで攻め込み、会津藩や桑名藩、薩摩藩や新選組などの軍勢と激しい戦いを繰り広げた。
これがかの有名な「蛤御門の変(禁門の変)」だ。

しかし西郷隆盛の救援もあって、長州軍は激戦の末ついに大敗を喫す。
御所を後に命からがら敗走する軍兵らが、道すがら家々の木戸を叩き水を乞うたものの、戦を恐れた商家はみな木戸を閉じたまま。
腹を立てた兵士が刀で柱を切りつけた、その痕跡がまさにこの柱の傷だというわけだ。
幕末の動乱が目に浮かぶ。

今まで気にも留めていなかった小さな凹みが、歴史の重さを物語る。
160年余りの時を越え、当時の藩士たちの意気込みと無念さが胸に沁みてくるようだ。

 

この戦いは境町御門付近でも繰り広げられ、劣勢に陥った長州軍は鷹司邸に立てこもるのだが、すぐに包囲されてしまう。
やがて邸に火が放たれ、折からの北風にあおられどんどん燃え広がって南へと拡大。
晴天続きで乾燥状態にあった京都の町はたちまち火の海と化してしまった。
火はじつに3日間も燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通から七条通までの3分の2が焼き尽くされたと言う。
幸いにもここは堀川のおかげで大火災を免れた。
もしも火がここまで回っていたら、今このような情緒あふれる店構えには出会えていなかったかもしれない。
そんなことを思うと、ありがたくて思わず手を合わせたくなる。

さまざまな時代をくぐり抜け、今こうして変わらない姿を見せてくれている山中油店さん。
大型の町家がすっかり減ってしまった京都の町で、貴重な存在として佇むその姿は、歴史の証人にふさわしい貫禄だ。

社長さんのお話しを聞きながら私も幕末の頃に思いを馳せてみた。
日本が大きく動いてゆくさまを、この町家はずっと静かに見守ってきたのだろう。
ひそやかな水車の音が何かを語りかけているような、そんな気がした。

2025年3月13日

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