油に目覚めた日~私にとっての山中油店さん~
エッセイスト 湧月りろ
ものごころがついた時から、我が家の台所には必ず「山中油店」と名前の入ったガラス瓶が並んでいた。
私にとってはそれがごく普通の日常風景だった。
母のお腹にいる時から、私はもうこの油に馴染んでいた。
母が「子供の頃からずっと山中油店さんで油買うてたえ」と言うのだから、少なくとも祖父母の代からそうなのだ。おそらくその前も、その前も。
かつては暗闇に光を灯す燈明用として、明治時代からは食用として、油は今も昔も人の生活のそばにあった。
そこにあるのが当たり前。そんな感覚で暮らしてきた。
母の実家へ越してきた30代の頃、歩いて行ける範囲に山中油店さんがあることが嬉しくて、さっそく買いに行ってみた。
鯉が泳ぐ池に水車がゆっくり回る京町家の店構えは、幼い頃に母と訪れたかすかな記憶をよみがえらせる。
「懐かしいなぁ。あの時のままやぁ」
少し緊張しながら引き戸を開けた。
京都の老舗と聞けば、ともすれば少しハードルが高そうなイメージを抱くかもしれない。
じつは私もちょっとドキドキしていたのだけれど、そんな気持ちもにこやかな声で一瞬にしてほどけた。
「いらっしゃいませ。よろしかったら油のテイスティングも出来ますよ」
油のテイスティング!
初めて聞くフレーズだった。
イベント的な場で特別な油を味見したことはあったが、ズラリと並んださまざまな油をひとつひとつ試しながら吟味できるなんてちょっと予想外だ。
「玉締めしぼり胡麻油」と書かれたその瓶には、見るからに香ばしそうな茶色ではなく、軽やかな黄金色の液体が見える。
スプーンにたらされた油をそっと舌にのせてみると、ふんわりとごまの実の味がした。
焦がしたごまの強い匂いとはまったく違う、ごまを歯で噛んだ時に広がるようなやわらかい香り。
凝縮されたごま本来の旨みと甘みが少しの時間差をもって次々と現れる。
「いわば、和のエキストラヴァージンオイルですね」
奥ゆかしいという表現が似合うだろうか、こんなに奥行きを感じるごま油は初めてだ。
もうひとつ、手作業でしぼられたという菜種油を試すと、これまたびっくり。
菜の花のおひたしを食べた時の、あの菜っ葉の味がするではないか。
目の前に菜の花畑の景色が広がるようだ。
オリーブオイルに至っては、ほのかにバナナのような香りを感じるものから苦みとコクのあるもの、青い果実がはじけるようなくっきりした味のもの、口の中がスキッと爽やかになるものなど、あまりにもバラエティー豊かな味わいがあって、まさに驚きの連続。
もはやオリーブオイルというひとつの名称でくくるのが申し訳ない気さえする。
油って本当におもしろい!
こんなにも味や香りに個性が満ち、味見するたびにハッとさせられるなんて。
そもそも、油の形容に「おもしろい」という言葉を使うとは思ってもみなかった。
選び抜かれた素材でていねいに作られた油だからこその味わい。
本物の油をひとつずつ厳選した、こだわりの仕入れがなせる業なのだろう。
ここへ来ればこんなにたくさんの魅力的な油に会える。
この時以来、私はすっかり山中油店さんのとりこになってしまった。
思えばこれが本当の意味での、私の「油との出会い」だった。
創業から200年。
油の専門店としてひとすじに歩んでこられたその歩みは、京都人の生活の歴史そのものだ。
人々のかたわらにいつもあった油。
けれどもその奥深さは、私の中ではまだまだ神秘のベールに包まれている。
もっと知りたい。もっと味わいたい。
そんなワクワク感に心が躍る場所、それが私にとっての山中油店さんなのだ。