和のあぶら

油と地蔵信仰 その6(大阪の地蔵2)

大阪船場の油掛地蔵(大阪市中央区南船場1丁目12)

蕓 苔 子(うんたいし)

さて、前編で触れた由緒書きを紹介する前に太子の「筋違い道」と川西町吐田の土地柄についてちょっと触れておきたい。

南船場一丁目12

南船場一丁目12
ビルの一角に鎮座

お線香・お花や供物

お線香・お花や供物も絶えない
(地蔵尊でないとの説あり)

【難波(ナニワ)の歴史を見続けたお地蔵さん】
大阪は中央区(元南区)、安堂寺橋通一丁目と板屋橋筋とが交差する辻の西南角にあるビルの一角に“北向きに鎮座”し、都会の喧騒の中、高層ビルの片隅で耐えながら世の中の移ろいをジーッと見てこられたお地蔵さん。戦前までは浄土真宗本願寺派「明善寺」の境内に安置されていたが、昭和20年3月13日の大阪大空襲で「明善寺」一帯は焼失、お地蔵さんの線香立ては真二つに割れてしまつたが幸いにもご本尊は無傷のまま残ったとのこと。戦後復員した住職さんがそれを見つけ現在の場所に安置されたとか。「明善寺」はその後、住吉区大領二丁目に移転されたが、奇特にも毎月24日には住職さんが法要に来られているそうである。また、このお地蔵さんは悪疫退散・火防にご利益があると評判で現在も油で黒光り、殊にミナミの人たちの信仰も厚く大切に祀られているそうである。


 

熱心な信者

いつも熱心な信者が絶えない

安堂寺橋の名板

安堂寺橋の名板

さて、先ずは探訪の事始に中央区の区役所にお邪魔してみた。そこで紹介されたのがなにやら意味深な「渥美連合」、そしてその副会長の高田さんから色々とお話を伺うことが出来た。それによると明治から戦前までこの地区は「渥美(あつみ)」と云われ「渥美小学校」もあったとのこと。
そしてこのあたり一帯はその昔「安曇寺(あんどうじ)」跡であったといわれ、今の地名になっている「安堂寺町(あんどんじちょう)」*注1もその名前に由来しているとのこと。そして今もって「渥美連合」と称している由。なるほど・・となるとそこには「阿曇(あずみ)⇒あずみ⇒渥美(あつみ)」と「阿曇族(あずみぞく)」との関わりも・・・・とお話しをお聴きするうちに古代海人族とのかかわりに何かしら心躍る気持ちになったことであった。更に高田さん曰く“北向きの地蔵さんはとても珍しく3ケ所参詣するとご利益が大きい”といって今でも沢山の信者がおられるとのこと。たまたまお会いした中年のビジネスマン風の参詣者にお伺いすると、数年前に友人から“有難いご利益のあるお地蔵さんですよ“と紹介され、遠方にも拘らず毎年欠かさず参詣を続けているとのこと。よほど霊験あらたかなことであろう・・・と早速、当方もお賽銭を用意し、お祈りをしたのは申すまでもない・・さてさてご利益のほどは!!

【由緒あるナニワ名所のお地蔵さん】
ところで、このお地蔵さんはいつの頃から“油掛の風習”が始まったのか古いところは定かではないが、下って江戸時代の古文書に記述されていた各種資料を、以下年代順に追ってみた。〈因みに安堂寺の町名は明暦元年(1655年)から確認される・・南区志より〉

「摂陽群談」(元禄14年=1701年 岡田自省軒 著)
大阪の市中、安堂寺町の市店、軒の側にあり弘法大師彫刻の石造也と云傳。患瘧疾者此像に祈り油を以って石像に浸す、必即功あり、世俗油懸の地蔵と称す」とある。
「摂津志」(享保21年=1737年 並河誠所 編纂)
「日本書紀に見えたる安曇寺の石仏なり。背面に天平11年安曇寺の銘ありとなん。今これをたづぬるに壊滅して見えず」とある。

「神仏霊験記図会」(文政5年=1822年 暁鐘成 編纂)
「“油かけ能化(のうげ)*注2の地蔵大菩薩、げに安曇の古跡残れると”言う歌を三回唱えて立願し、成就すれば油を潅ぐべし」と記されている。伝えによると、「いつの頃かこの地蔵尊を敬い信仰する遊女があったが、ある時その遊女が抱え主から折檻されて体に油を注ぎ掛けられたのを、この地蔵さまが身代わりとなって遊女を救われた」という話しがあり、そのゆかりによって参詣人は油を掛けるようになったのだといわれている。

絵図 「浪華名所獨案内」 (天保年間=1830~1843年に刊行)
東横堀川沿いにかつての「住友の銅吹屋」が描かれ、長堀に架かる橋を越えると安堂寺橋があって、その通り沿いに油掛地蔵がある。天保の頃はこの地蔵さんは大阪名所であった。浪華名所獨案内

「摂津名所図会大成」(安政2年=1855年 暁 鐘成著 浪速叢書)
「地蔵を縄で巻き、油を注ぐと願いがかなうと云われ、元和年中(1615~24)土中より掘出されたとき背面に天平11年造安曇寺の銘が幽かに見える。また、安堂寺の町名はそれを受継いだもの」と記されている。明善寺に祀られたこの地蔵尊は病気平癒で信仰されていたが萱野某という人が子供の病気症状重く医薬も底をついたのを悲しみ、やけになって地蔵に油をかけ縄で縛りあげて、これでも直してくれないかと叫んだ。ところがたちまち平癒したのでそれからは油掛地蔵といわれ、先ず縄でぐるぐる巻いてから油をかける信仰が起こったという。

zizouson-ryakuki現代 「明善寺油掛地蔵尊縁略記」(平成二年五月八日 安一町会長)
「旧明善寺境内に鎮座されていたこの地蔵尊は、古事記、日本書紀、摂津名所図絵等に記載されており千三百有余年前孝徳天皇の御代で古色蒼然たる誠に古い石仏であります。天平の文字が記されていますが何分長世の事とて、油とじんあいでかくれています。昔から悪疾、火防等の退散、その諸仏縁、まことによろしく、古来万人の信仰の対照となっておられました。然るに昭和二十年三月十三日の夜半、あの大戦による大阪空襲の為、業火の犠牲となられましたが、尊前のお線香の捧げられていた大きな石つぼが真二つに割れていましたが、お地蔵様は、そのままでお立ちあそばしておられました、想えば不思議なことでした。さぞかしあの業火の中に救の御手を長い間道行く人々にお慈悲の無言の説法をされてこられたとおもわれます」掲示[渥美連合安一町会]・・(安一町=安堂寺町一丁目を短縮)

【阿曇寺は何処に】
さて、応神・仁徳天皇の頃、多くの渡来人が難波の地にも住み着いたようで「阿曇氏」もその中の一氏であった。海洋民族「阿曇連(あずみのむらじ)」は海部(あまべ)を統率した伴造(とものみやつこ)で、九州の沿岸から瀬戸内、近畿はもちろん東海、長野にも勢力範囲が及び、海人にかかわる地名を今に数多く残している。例えば、海人・海士・海部・阿万・阿摩・阿満・尼・安麻、またその統率者の阿曇は阿曇部・渥美・渥見・厚見・安積・英積等などの地名や姓が東西各地に残り、民族学的にも日本文化の基層にこれら海洋民族「阿曇族」が多大な影響を与えたであろうことがと指摘されている。
かつて、ここ難波の地には白砂・松林の広がる風光明媚な「安曇江(あずみえ)」と呼ばれる景勝の地があった。そしてそこには「阿曇寺(あずみでら)」と云われる古刹があったことが古事記・日本書紀、更には続日本紀にも記載されている。また、古代大和朝廷の時代、蘇我・物部氏等と共に活躍したこの「阿曇連(あずみのむらじ)」のことなど考えあわせると、「阿曇寺」は彼等の氏寺として後世まで相当崇敬されていたのではなかろうか。難波の風物が彷彿としてくる思いであった。
ただし、残念ながら「安曇江(あずみえ)」・「阿曇寺(あずみでら)」の所在地、また廃寺の時期などは色々検証されているものの確たるものがないようである。例えば京都市山科区の「安祥寺」所蔵の梵鐘には、「摂州渡辺安曇寺洪鐘一口」嘉元4年(1306年)の銘があり、元は「安曇寺」にあつた梵鐘には間違いないらしいが、その銘から推定すると大川を挟んだ天満橋辺りの南・北両岸一帯と云われている「摂州渡辺の地」*注3に「安曇寺」はあったことになるとか。
ところが、明治19年調査の大阪実測図によると北野村太融寺の東方、北区野崎町辺りに「アドエ」という小字名があり「安曇江」の有力な地とも考えられることから、その場合は「安曇寺」は北区野崎町から天満橋北西のあたりとの説も有力となってくる。
また、これまでの地下埋蔵物の発掘調査等からいっても『中央区谷町5丁目あたりからの飛鳥時代の瓦片や白鳳時代の丸瓦・鴟尾片出土、更には中央区北新町での奈良末・平安初期の瓦片と共に白鳳時代の瓦片の出土、また中央区石町では白鳳様式の花崗岩礎石の出土、京阪電鉄の地下化工事で礎石二個の出土、三越百貨店の建設工事で四天王寺創建瓦と同笵軒丸瓦が出土』等々・・・上町台地の西、大川の南岸には古代寺院の存在を窺わせる遺跡が多々あるものの、それでも尚「阿曇寺」の所在地を確定するまでには到っていないようである。

【北を向いて黙ったままのお地蔵さん】
また、戦国時代、織田信長と石山本願寺門徒との石山合戦で、難波のこのあたり一帯は元亀元年(1570年)から天正八年(1580年)にかけて、延べ11年に及ぶ戦渦に巻き込まれ石山御坊は勿論のこと「安曇寺」も街も村も悉く壊滅尽くされたのであろう。
その後、豊臣秀吉の時代、朝鮮出兵(1592年頃)の際に、先の石山合戦で辛うじて破壊を免れた「安曇寺」の梵鐘が、陣鉦(じんがね)用に調達されかけたが幸いにも不用になり、京都山科の「安祥寺」に払い下げられたとか。また、かつて「安曇寺」に祀られていた“油掛の石像”は元和年中(1615~24頃)土中より掘り出され「明善寺」に祀られたとか。・・・そしてその時、難波の人達は昔から大切に祀られてきたお地蔵さんを憐れんで、かつて鎮座していた「安曇寺」をせめて偲んで貰おうと「寺」のあった方角(北向き)に向けて安置したのではなかろうか等など・・・と想像すると、人々のお地蔵さんに対する崇敬の念とか暖かい思い遣りを感じたことであった。そしてこの油掛地蔵さんは何百年いや千何百年も世の移り変わりを黙ってじっと見つめて来られたことだけは事実であろう。そしてこれからもこの喧騒の街角で人々の生業を見ていかれるのであろう。そんな感傷に耽りながら“船場のお地蔵さん”にお別れをしたのであった。

・ ・・・・ 次回は八尾の油掛地蔵さん・・お楽しみに!

注1
azumi

注2
能化 「のうけ、のうげ」仏語:師として他を教化できる者、主として仏菩薩をさす
反対語・・・所化
注3
摂州渡辺の地: 因みに 津=船の着く港、渡=渡河の場所を云った、難波の掘江には「津」や陸路を行くための「渡」があった。難波の大渡の「辺」りから渡辺(渡部)が起こったと云われている。熊野詣でや吉野参詣の出発点として栄えた

参考文献
古事記 倉野憲司校注 岩波文庫
日本書紀 坂本・家永・井上・大野 校注 岩波文庫
続日本紀 宇治谷 孟訳 講談社学術文庫
大阪古跡地名辞典
大阪史跡辞典 三善貞司編 清文堂出版
新修 大阪市史vol1
日本古代史「日本書紀年表」 新人物往来社
古代の三都を歩く難波京の風景  上田正昭監修 文英堂
大阪の橋 松村博著 松籟社
大阪の中世前期 河音能平著 清文堂
古代難波の水光る 津田由伎子著 大和書房
「記紀参考記述」は紙面の都合上カットしました