和のあぶら

油と地蔵信仰 その6(大阪の地蔵1)

江坂の油掛地蔵(吹田市江坂素盞鳴尊神社境外)

蕓 苔 子(うんたいし)

さて、前編で触れた由緒書きを紹介する前に太子の「筋違い道」と川西町吐田の土地柄についてちょっと触れておきたい。

垂水神社社殿

垂水神社社殿
右側奥に水場と”石ばしる”の石碑あり

垂水神社の鳥居と参道

垂水神社の鳥居と参道

【万博の年に吹田街道の交差点から移されたお地蔵さん】
新大阪駅から北大阪急行電鉄で「江坂駅」にて下車、北東に15分ほど歩くと「垂水神社」があり「石(いわ)ばしる垂水の上の早蕨(さわらび)の萌(も)え出(い)づる春になりにけるかも」(万葉集巻8志貴皇子)は、この神社の滝水を詠ったのではないかと云われている。余談ながら、この神社は千里丘陵の南端に位置し創建は明確ではないが、延喜式内名神大社で崇神天皇の皇子である豊城(とよき)入彦命が主祭神である。平安時代前期の「新選姓氏録」によれば、大化改新直後の孝徳天皇の時代に、諸国で旱魃があり河川や井戸が涸渇することがあった。その時、豊城(とよき)入彦命の子孫である阿利真公(ありまきみ)がこの神社から難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)(646年遷都:現大阪中央区法円坂あたり)まで「高樋」を造り、天皇の宮に水を通じて御膳に供えたので、天皇はその功を称えて垂水公の姓を与え、垂水神社を掌らせたとの由である。

素盞鳴尊神社の鳥居と参道

素盞鳴尊神社の鳥居と参道

素盞鳴尊神社本殿

素盞鳴尊神社本殿

この垂水神社から西に15分ほど行くと「江坂素盞鳴尊(すさのおのみこと)神社」(通称江坂神社)がある。この神社の御祭神は素盞鳴尊を主神として天照大御神・誉田別尊(ほんだわけみこと)(八幡大神)を相殿神として祀られているが、7~800年前から垂水の広芝と小曾根の寺内にそれぞれに祀られていたと言われる神祠(ほこら)をいつの時代にかこの地に合祀したのがはじまりで、以来榎坂(江坂)・寺内の氏神・産土神として祀られているとのこと。神仏習合の影響で牛頭天王(ごずてんおう)(インド祇園精舎の守護神で疫病除けの霊験あり)が習合されたため、牛頭天王社とも称されていたが明治の神仏分離令で、現在の素盞鳴尊神社に改めたそうである。


 

地蔵堂

地蔵堂の前に小屋庇掛け・手前は石仏群

油掛地蔵群

堂前に小屋掛けした板間に油掛地蔵群
信者が下段の像に油を掛けている

さて、念願の油掛地蔵さんがここに鎮座しておられると聞いて心弾ませ訪れたのであった。ところで、そのお地蔵さんは、神社の境内ではなく、神社本殿の西側境外の薄暗い林のなかに祀られており、堂内も薄暗く、何体かの地蔵さんが油を注がれ板敷きの間に安置されていた。正殿には同じ位の大きさの三体の地蔵尊が祀られていたがこれには油は掛けられていなかった。これまで探訪した油掛地蔵さんとは違って主尊になる大きな地蔵尊は見当たらず、脇地蔵さんを含めて所謂「油を掛けられた地蔵さん達」と表現したらよいのであろうか・・・・、更にまた、地蔵堂斜め前の大木の根元にも、その昔には色々の思いでそれぞれに祀られたであろう大小さまざまな石仏や崩れた五輪塔等が寄り添うようにそのまま置かれていたが、なにか訳があるのであろうか・・・少々歴史の空白を感ずる思いであった。


 

五輪塔

堂前の根元に置かれた石仏や五輪塔

地蔵堂

油掛地蔵堂が在った場所に立てられた地蔵堂(背景は北大阪急行電鉄の高架)

さて、兎も角も、お地蔵さんについてお尋ねしようと神社社務所へお伺いしてみた。事前にお電話でお願いしていたこともあり、多田さんと言う女の方が親切に対応して頂き色々とお話しをお聞きすることが出来た。それによると、

“もとはこの油掛地蔵さんは江坂村を通る吹田街道(145号線)と新御堂筋(423号線)とが交差する付近に祀られていたが、万博の年(1970年頃の再開発でしょうか)に今の所(同神社の境外)に移され、それ以降地域の人達によって守られてきているとか。堂前の石仏群も当時街道筋にあったものを一緒に移して安置したそうである。余談だが・・その後、地蔵さんがあった元の江坂の新御堂筋ではちょくちょく事故があったとか・・それで、わざわざ代わりの新しい小さなお地蔵さんを改めてまた祀ったそうですよ”

・・とおっしゃっておられた。・・人の心というものもなかなか難しいもの・・それと、その後その新しいお地蔵さんのご利益や如何・・これは残念ながら聞き逃してしまいました。

小栗判官油掛の切り絵

小栗判官油掛の切り絵
「ききがき吹田の民話」より・・・切り絵は脇田慶子さん作

【油掛地蔵さんが小栗判官の土車を動かしたとか】
万博の年までは吹田街道筋に祀られていたらしいが、どの様に祀られていたのかは皆目見当がつかない。新御堂筋線の延長工事のため石造の地蔵本尊・お堂・石仏など全てがかつての江坂郷の村人によって江坂神社の境外にあった村の共有地に移されたそうである・・・とにかくこの地蔵さんは「油掛地蔵」と呼ばれ色々と言い伝えがあるようだ。例えば子供が歯痛の時に一合ほどの油をかけて祈願するとたちまち痛みが止まったとか・・また、「説経節」で知られる「小栗判官」にまつわる伝承などもあるが、それによると“小栗判官の土車がこの地蔵さんの前で動かなくなって困っていた時、風が吹いてがさがさと周りの小笹がゆれ「あぶら あぶら」と声がしたので、土車の心棒に油をさしたが少しも動かなかった。ところが、残りの油を地蔵さんに掛けたらたちまち土車が動き出したそうな、それからは村人も油を地蔵さんにかけるようになったとさ”という話である。そんなことで、熊野信仰とのかかわり等を考えてみると様々な推理もできるようにも思えてくる。

【その説経節からここ江坂の油掛地蔵を推理してみると】
まずは、熊野信仰で有名な「説経節」で名高い小栗判官が吹田街道の油掛地蔵とどの様にかかわったのかをちょっと探ってみた。その“道行”を原文のまま引用してみる・・
・・《車の檀那、出で来ければ、上り大津を引き出だす。関山科に車着く。もの憂き旅に、粟田口、都の城に、車着く。東寺、さんしや、四つの塚、鳥羽に、恋塚、秋の山、月の宿りは、なさねども、桂の川を、えいさらえいと、引き渡し、山崎、千軒、引き過ぎて、これほど狭き、この宿を、たれか、広瀬と、つけたよな。塵かき流す、芥川、太田の宿を、えいさらえいと、引き過ぎて、なかしまや、三ほうしの渡りを、引き渡し、おいそぎあれば、ほどもなく、天王寺に車着く。》・・・
説経節によると重病を押して土車で常陸の国から熊野詣でへ旅立った小栗判官は、愈々、京都の伏見鳥羽から桂川を渡り山崎・広瀬の宿を通って芥川・太田の宿に進むとなっている。ここまでは西国街道沿いの宿場であり、太田の宿から吹田街道に入るや村人や旅人に信仰の篤い油掛地蔵にたどり着き、先ずは病治癒・諸願成就を祈ったのではなかろうか。次のなかしまと三ほうしの渡りは所在不詳とのことであるが、なかしまについては、ここ吹田・神崎川周辺において寛正2(1461)年の中島崇禅寺領(崇禅寺文書)とか延宝6(1679)年の中島大水路、明治22年の島下郡の中島村などでなかしまの名が散見できる。また、文治5(1189)年の春日社領垂水西牧榎坂郷加納畠取帳(当時の税取立帳)の「江田」は低湿悪田と評されていた由。ここは天竺川・高川・糸田川が合流し、かなりの低湿地帯で淀川の流域での天満砂洲ができ、本島・新島・とうししま・むかいしま・出しま・・の名前が出てきており、現在でも西中島南方などとなかしまの名は残っているので神崎川と旧淀川の間にできたいずれかの中洲の名前であったのではなかろうかと推定される。(昔からこの辺りの湿田では特産の吹田(すいた)慈姑(くわい)が栽培されていた)それに三ほうしの渡しが何所にあったか判らないが、吹田街道に交わる街道(横関街道・能勢街道・山田街道)を南下すると神埼川や旧淀川を必ず渡らなくてはならないことを考えると、三ほうしの渡しもそのいずれかの渡しのことであったに違いない。

また、偶然にも小栗判官にかかわる伝承が岸部(吹田操車場辺り)の吉志部(きしべじんじゃ)神社の御旅所(おたびじょ)であったと云われる「名次宮(なつけのみや)」にもあり“小栗判官を乗せた車がさしかかったとき、車を曳く縄が切れたので村人が縄をなって継いだのがこの宮であったことから「なつけ(き)」と呼ばれるようになった”とか。更に、茨木の倍賀(へが)・春日神社にも言い伝えがあったようで“病の小栗判官が、ここの冷泉を浴び、祈ったらたちまちにして治った”と言い伝えられている。しかし結局、説経節の中では江坂の油掛地蔵にかかわる説話にはお目にかかれなかった。どうも僧侶達がその土地柄に合った身近な題材を利用して熊野信仰の“よみがえり(蘇り)”の有り難い説経を普及する為に利用したのではないかと考えたのであるが・・さてさてどうであろうか。

【竹林がニュータウンに・・お地蔵さんもビックリ】
今回の探訪では、江坂・吹田の周りにも熊野信仰のかかわりらしきもの《熊野田村(熊野代)・九十九(津雲台)・ちさと(千里)・・等》が随所に見られたが、こと油掛地蔵とのかかわりとなると推理の域を脱し得なかった。この地域は明治の淀川放水路の開削事業を始め、昭和36年の千里ニュータウン建設、昭和45年の万国博覧会開催によって大きく変貌した。また、これに合わせて北大阪急行電鉄が開通したほか、名神高速道路の開設、これに連絡する近畿自動車道・中国縦貫自動車道等が同45年までに完成するなど、いままで竹林原野であった千里丘陵地帯は急速な変化を遂げている。その昔、吹田街道の辻に鎮座し庶民の厚い信仰を集め、村人や旅人に慕われ大切に祀られて来た地蔵さんも、近代化という名の波に押されっぱなしになり、いまや神社の片隅に追いやられ、やがてはその経緯や歴史も殆どが忘れ去られようとしていることを感じ、少々感傷に耽ったことであった。

次回は大阪船場の油掛地蔵さん(大阪の地蔵その2)を楽しみに!!

参考文献
淀川往来向陽書房 上方史跡散策の会編集
説経節 小栗判官他 東洋文庫243 平凡社
荒木繁著・山本吉左右編
大阪府の歴史(県史シリーズ27) 山川出版社 藤本篤氏他
西国街道 向陽書房 岡本太郎著
大阪の街道と道標 サンライズ出版 武藤善一郎著
大阪府の町名図鑑 (吹田市より)
琵琶湖・淀川・大和川その流域の過去と現在 大明堂 理外歴史地理学研究所編

「ききがき吹田の民話」 吹田市市長公室広報課編
すいた歴史散歩 吹田郷土史研究会著 吹田市教育委員会発行