和のあぶら

油と地蔵信仰 その5(奈良の地蔵2)後編

川西町の油掛地蔵(奈良県磯城郡川西町)

蕓 苔 子(うんたいし)

さて、前編で触れた由緒書きを紹介する前に太子の「筋違い道」と川西町吐田の土地柄についてちょっと触れておきたい。

供花とお水と線香が絶えない

供花とお水と線香が絶えない

石蔵線香たて

立派な石蔵線香たて

須知迦部道(すちかへみち)は磁北線であったのか??
藤原京から平城京のある奈良盆地を南北に貫く大和古道は「上ツ道・中ツ道・下ツ道」に対し八木の「札の辻」に東西に走る「横大路」がある。これとは異なり、北北西に20度ずれて飛鳥と斑鳩を斜めに真っ直ぐに延びている道があるが、この道はちょうど家の柱の「すじかい」の様に「斜め」に延びており、聖徳太子が推古13年(605年)10月に斑鳩宮に移られ後、天皇のおられる「飛鳥小墾田(あすかおはりだ)・豊浦宮」への約22kmを愛馬「甲斐の黒駒」に乗って通った言わば“通勤道路?”で、今でも「太子道」「筋違い道」と呼ばれている。後世史実にもに書かれた「顕真」の「聖徳太子伝私記」に[推古天皇が太子のため斑鳩から飛鳥へ通う道として“須知迦部道(すちかへみち)”を作られた・・・云々]ともある。
奇しくも小墾田宮跡や豊浦宮跡とされる向原寺の軸線が磁北より北北西に20度傾いていて、同じ様に斑鳩宮・若草伽藍跡の基壇も中軸線が磁北から20度北北西にずれて据えられている事が昭和43年の国の再調査で判明した由。橿原考古学研究所の談によれば当時の磁北は現在の北よりも約20度北北西に振れていたのではないかとの説明であるが・・・・・地軸が大変動するような天変地異がこの当時の歴史上でまさか有ったのだろうか・・??

飛鳥川、淵瀬さだめなき・・大和吐田(やまとはんだ)は水処(みずところ)
それはさておき、ここ川西町では屏風の式下中学校辺りまで「筋違い道」が確認出来るがその先は埋没しており大和川を渡った安堵町辺りで再び確認できるとのこと。その間にある吐田の油掛地蔵尊に関わる「南北の筋違い道」はこの土地柄に関係するのではないかと推察してみた。大和川の堤防に登り西方向に視線を向けると直ぐそこに“斑鳩の里・法隆寺”が望まれる。ここでは奈良盆地に降った雨は大和川(初瀬川)を主流とし寺川・飛鳥川・曽我川・岡崎川・富雄川等が集合し合流する場所であって、ここ川西町一帯は大和の国の中で最も低い地域であり、太古は大きな湖沼地帯、その後次第に低湿地地帯になった由である。「枕草子」に「河は飛鳥川、淵瀬もさだめなく、いかならんとあわれなり」と定めなき世の例えとされ、有史以来、人々はさぞかし洪水に悩まされた湿地帯であったことであろう。吐田(はんた)・窪田(くぼた)・額田(ぬかた)〔ヌガタ:湿田〕・安堵(あんど)〔阿土〕飽波(あくなみ)〔アク:芥:悪田〕・川合などの地名からも察しがつく。「大和吐田は水処」と言われ洪水の多い土地であった。
又、江戸時代は阿土では「額田郡の辻の鼻切れ」によって度々洪水に見舞われた由。古く吾斗:アト:阿土と呼ばれた地区は安堵町窪田の地区であろうと言われ、この地は古くから湿田に「蘭草(いぐさ)」を栽培し法隆寺に「灯心(とうしん)」を納めていた由。現在も安堵町〔アンド:行灯(あんどん)〕は「蘭草」から灯心造りが細々と続けられているとテレビでも紹介されていた。川西町の南側の辺りは土地も高く洪水には悩まされる事はなく、その昔はミヤケ⇒屯倉(天皇家の倉)が有った所が現在の三宅町である。この三宅町を過ぎ屏風を過ぎる辺りから湿地帯が連なり河川の淵瀬も変化するので、その都度通路も変更され、時には川瀬沿いに、時には葦原を、時には畔沿いに進んだのであろう。その畔道の一つが南北に直進する油掛地蔵尊前の「筋違い道」であったのではなかろうか。太子信仰と相まって「太子道」は人々の間で大切に保存され伝承されて来たのであろうと推察できる・・・・皆さんも、是非一度、現地に行かれて田んぼの中の地蔵尊の前にたって眼を瞑り、悠久の飛鳥に思いを寄せてみられるのも如何。

いよいよ「油掛延命地蔵尊濫觴(らんしょう)」の登場
さて、いよいよ吐田邑の公民館に保存されている由緒書きの本文を要約して紹介してみよう・・・・
掛奉 油掛延命地蔵尊濫觴 (濫觴:ものごとのはじめ)
「聖徳太子が橘の都より斑鳩へ行幸される経路で半田郷に暫らく御休みなされた、何かこの半田郷には由緒があるのかお尋ねになられ、太子が休む処であるから何か後世に伝え置いておこうとお考えになられ、西方に向かって南無仏・南無仏と唱えたところ不思議な事に紫雲がたなびき良い香りがして、まるで花が鏤めたような空中に地蔵尊が顕れたのである。その御影像をここに移されて延命地蔵菩薩を彫刻なされたのである。ある時、ひどく雨が降り続き石仏が水に浸かったのを見て、太子は非常に嘆き悲しみ涙を落され、この地蔵尊に油を掛ければ水を寄せ付けないので油掛地蔵尊と崇い末代までも敬い奉れとお教えなされた。太子は橘寺から斑鳩の里まで十八大願の法を移され十八ヶ所の辻に霊像をお建てになられたとの由(此処まで十八の辻に像を建てられたその一つが吐田の辻の油掛地蔵尊である)その昔、神代の頃五代ウガヤフキアエズの尊の第四皇子のカムヤマトイワレヒコの尊が現れ、初めて日向の国宮崎に都を置かれた、その後大和橿原に都を移し、神武天皇と称して国を開かせた時、ここは大和の国の“なかば”であるから“半”の字を用い“半田郷”と名付けた、聖徳太子は“半田”は由緒有るが湿地で五穀も実らない、以後水に浸たらない様にとお考えになられ、昔の“なかば”という“半”を除き“水吐く”意で“吐田村”に改めなされたとの由・・・(此処まで国なかばの意で半田郷から水を吐く意の吐田村に改めたと記述)
それもこれもこの地蔵尊は過去未来現世の三世に亘り四辻にあって一切の衆生の苦しみ患いを救い九品之浄土に導かれる。油を掛けて祈れば速やかに諸願は成就するとのこと、誠に正法の御恩は広大無双で有難い事である」

本文から写し置きこと・・・(何らかの元資料があったのでは??)
天保十二年辛丑七月四日・・(1841年)

北吐田村
地蔵講中

筋違い道

前方結崎方面・右が筋違い道・手前に杵築神社大和川へ

昔から人々の心に宿る石仏信仰、そしてお地蔵さんにすがった庶民の祈り・・・ここ川西町の広い田んぼの中に静かに鎮座している油掛地蔵さんもきっと「今時の人達も少しは遠い先祖の人達の苦労を考えてみたら・・・」と囁きかけている様な気がした。そんな探訪を終えて何かほのぼのとしたものを感じながら帰路についたことであった。

京都長福寺油掛地蔵での林忠治氏(油と地蔵信仰その4参照)と「古絵図」との出会い、今回の川西町吐田の清水鏘俊氏と「油掛地蔵尊濫觴」との出会い・・共々本当にグッドタイミングであった。これも油掛地蔵さんのお引合わせであろうかと感謝したことである。
どうも世の中には、まだまだ歴史に追加したい貴重な資料が沢山ありそうである。そんなチャンスに巡り会えることを夢見ながら探訪の旅が続けられればと念じている。又、本稿終わりにあたり清水鏘俊さんのご紹介下さった川西町教育委員会の深澤達彦主任のご尽力に一言心からお礼を申し上げる次第である。
さて、・・・・・次回からは大阪の油掛地蔵さんです。どうぞお楽しみに!!

(安堵:阿刀氏=空海との関連は「京都油掛地蔵その3」でも一部紹介しましたが油掛の風習に何か関連があるのではないかと興味が尽きないところ。後日の楽しみなテーマの一つです。)
「顕真」について
鎌倉時代の法隆寺の僧で「聖徳太子伝私記」は嘉禎4年(1238年)の著と記録されている。

参考文献(前編・後編共通)
川西町吐田の清水鏘俊氏のお話しと由緒書きの写し(油掛延命地蔵尊濫觴)
「太子道」横田健一関西大学名誉教授著 向陽書房
「大和・いかるが考」 辻 保治氏著 箕面史学会 会報107号
「探訪 日本書紀の大和」靃井忠義氏著 雄山閣出版
「奈良県の歴史」県史シリーズ29 永島福太郎氏著 山川出版社
「地蔵信仰」速水侑氏著 はなわ新書