和のあぶら

油と地蔵信仰 その5(奈良の地蔵2)前編

川西町の油掛地蔵(奈良県磯城郡川西町)

蕓 苔 子(うんたいし)

眼から鱗の落ちた地蔵さん

眼から鱗の落ちた地蔵さん

[田んぼの中の油掛地蔵さん]
先の「油と地蔵信仰その5」で紹介した奈良の古市町から国道169号線(上ツ道)を南下し天理から西名阪のガードを過ぎた辺りで右へ「川西結崎(ゆうざき)」方面の標識に従って進み、更に国道24号線(下ツ道)を過ぎ近鉄桜井線を渡ると川西町「吐田(はんだ)」に出る。お地蔵さんはこの辺りかと見当をつけて捜したが、遠くに僅かな樹木と祠らしきものが散見できるのみ、今まで訪ねた各地の油掛地蔵さんと違い周囲は全くの田園風景、こんなところに・・・・と暫らく車を走らすと目指すお地蔵さんにやっと巡り会うことが出来た。「初めての人には看板標識も無く戸惑ってしまいますよね」・・とフトお地蔵さんに声をかけたことであった。
お堂は比較的新しいが「油掛地蔵尊」の額の文字や堂内に掲げられた「由緒書きらしき額」もかすれて全く読む事が出来なかった。それでも熱心な信者さんがいつもお花も水も新しくお供えし、お地蔵さんにも油を掛けておられる様子でとても嬉しい気持ちがした。しかし、どうしたことか・・油で黒光りしたお地蔵さんの目の部分だけ油膜がはがれ気味。まるで「眼から鱗が落ちた」と表現したらよいのか、貫禄は十分であるが異様なご尊顔・・場所柄も手伝い長い風雪に耐えて来られたお姿が少々気の毒な感じでもあった。

筋違い道

南北に真っ直ぐな筋違い道(前方寺川・手前大和川)

[南北真っ直ぐな筋違い道]
さて、「山田の中の一本足の案山子」ならぬ「田んぼの中の一人立ちの地蔵さん」・・田んぼの中の十字路のこんな所にどうして祀られているのだろうと疑問がわいてきた。地蔵堂の傍らにある川西町教育委員会が立てた説明書きによると
「聖徳太子の通学路(筋違い道)添いの西向きのお堂に安置されているこの油掛地蔵は、大永三年(一五二三年)に造立されています。舟型光背のある高さ約六一センチ(台座とも)の地蔵立像ですが、泥田の中にうずもれていたのを引き上げて、ここにお祭りしてあります。クサができている子の母親がこの地蔵さんにお祈りして油をかけていると、クサが治ったと言われており、願をかける日には油を掛ける習わし(燃灯供養)があることと、当時この付近に水害が多いため、油を掛けて水を弾くようにと言うことから油掛地蔵と言われています」1993(平成5)年4月原文の通り
確か、以前に読んだ地蔵信仰の書物の中で柳田國男氏達が「昔から民俗信仰で道祖神を村の境や国境の山の峠などに悪霊や災いが浸入しないようにと願って祀った。地蔵は道祖神の本地と言われ村境・路傍・四辻をはじめ村の巷、十字路、三叉路といった人通りの多い交差路にも安置され縁結びや病気治癒や子供の安泰を願ったのであろう」と述べているのであるが・・・この場所はどうみてもすっきりとしない場所であった。
また、「筋違い道」も確か北北西に延びていた筈であるが、ここ吐田では明らかに「南北一直線の筋違い道」であり、どうも釈然としない・・?
周囲を見渡しても田んぼだけ・・人通りもなく確かめる術もなく、今回はお地蔵さんに「後日改めて参ります」と声をかけ、一旦帰路についたことであった。

[意外な資料が・・太子のお導きかそれとも油掛地蔵さんのご縁か]
さて、年も押し詰まった昨年末、以前お願いしていた川西町教育委員会の職員の方からご親切にわざわざ御連絡を頂き、ご当地油掛地蔵さんの歴史に詳しい吐田のご長老にたどり着いたとのこと。その上お会いできるように取り計らって頂いたのである。その方は清水鏘俊さん・・・90歳を迎えてなお矍鑠(かくしゃく)とされており、そしてまた博学・・歴史の漂う立派なお宅にお邪魔させて頂き、本当に今に生き続ける貴重な話しをお聞きすることが出来たのである。清水さんは昭和50年に地蔵堂を建立した時のモノクロ写真と天保年間に書かれた由緒書きを原稿用紙にメモして保存されておられ、しかもその吐田の庄屋にあった「由緒書き」の現物は現在「邑(むら)の公民館」玄関ロビーに展示保管されているとのこと、そしてわざわざそこまでご案内下さり特別に拝観させて頂いたのである。我々もワクワクしながら早速デジカメに納めさせて頂き、帰宅後、その難解な由緒書き〔濫觴(らんしょう)と記載〕を解読したところ驚くべき内容にまたまたビックリ。それもこれも聖徳太子や油掛地蔵さんの御導きがあったのではないかと今更ながらに感じ入った次第である。

次回『油と地蔵信仰その』後編でその本文要約を紹介してみたい。お楽しみに!!

歴史漂う川西町「結崎」の地と「能楽」について
同町内の「結崎」には南北朝時代に興福寺や春日大社に属する「大和猿楽座」の一つで「結崎座(観世座)」があった。結崎座の「観阿弥」は京都で室町将軍足利義満の庇護のもと猿楽を幽玄な芸に育て、その息子「世阿弥」が高度な「能楽」に仕上げたことで有名である。寺川の堤防沿いに「観世発祥の地」「面塚」の碑があります。日本伝統芸能の代表“能楽”はユネスコ世界遺産にも無形文化遺産1号です・・その発祥の地。どうぞ、一度訪ねてみて下さい。