和のあぶら

油と地蔵信仰 その3 嵯峨の油掛地蔵(右京区嵯峨天竜寺油掛町)

蕓 苔 子(うんたいし)

阿弥陀如来坐像

昭和53年まで油の塊で地蔵か如来か不明であったが実は鎌倉時代の阿弥陀如来坐像であった

【嵯峨野路にも見つけた油掛町と油掛地蔵さん】
京都JR花園駅で「新丸太町通り」と交差した旧道の「下立売通り」は、昔の面影を残したままの太秦・嵯峨野を過ぎ有栖川沿いに「油掛町」まで延びている。そして安堵橋(現甲塚橋)を過ぎ、しばらく遡ると油掛地蔵の赤い幟と橋が見えてくる。その橋が「油掛橋」である。ここは「四つ辻」になるのか川沿いの桜並木の土手に対し左側に分岐する道である。寛政10年(1798年)銘で「右あたご、左こくうぞう」と刻まれた道標石がこの「辻」に立っている。道標石の背後には参拝者や地域の人達の憩い場であろう・・長椅子まで置かれた集会所があり、左側の辻堂にお目当ての油掛地蔵が祀られている。
掛札に「大覚寺油掛地蔵尊」と墨書で書かれている。ここは嵯峨天竜寺油掛町であるが、昔から地元の人達が大切に守ってきた油掛地蔵尊に戦後奉賛会等が作られ、仔細は不明ながら大覚寺の管轄に入ったのでと言われているようである。
安堵橋のほとりに小さな祠で阿刀神社がある。この神社は平安遷都のおり河内国八尾から移住した物部氏の支族で阿刀氏の氏神である。余談だが弘法大師の母親は阿刀氏と言われている。図らずも八尾にも油掛地蔵があり、油を掛ける珍しい風習が阿刀・安堵・跡部・安曇・海人津見・海事氏族との関りがあるのかを探って改めて紹介してみたい

【およそ油を売る人・・・必ず油をこの像に潅ぐ】
山中恵美子さんの著書「杏の木のひとり言」の中に「嵯峨油掛地蔵」が紹介されている。当時「山中油店さんは下立売の店から嵐山まで地続きで行ける」と言われるほど西ノ京・花園・太秦・宇多野村等に多くの田畑や山林を保有しており、3代目平吾氏は自ら手押し車でこの下立売の街道沿いに嵯峨野方面まで油を売り歩いた由。勿論、油掛地蔵への信仰も厚く、寄付をしたり、また商売繁昌・家内安全を願って油を掛けたことでしょう。
地蔵尊に油を掛け祈願する風習は、伏見の油懸山地蔵院西岸寺での油売りの油掛伝承にもありますが、嵯峨の油掛地蔵尊については、江戸初期、黒川道祐の著した「近畿歴覧記」の「嵯峨行程」に延宝8年(1680年)9月、友人と共に嵯峨の当地蔵尊に立ち寄り「油掛ノ地蔵、此辺ニアリ。凡ソ油ヲ売ル人、此ノ所ヲ過ルトキハ、必ズ油ヲ此ノ像ニ潅イデ過グ。然レドモ其ノ由ヲ知ラズ」との記述もあり、これ等は油掛け関係の地誌の中で最も古い記述ではないかと言われている。少なくとも江戸初期にはすでに油商人には油を地蔵尊に掛ける風習があったことが判る。はじめは油商人の信仰であったが次第に庶民信仰へと広まっていったのであろう。しかし、庶民にとって明かりとしての貴重な油を(それこそ「爪に火を灯す」ほど倹約し貯めた僅かな油)この地蔵尊に掛けて現世利益をお願いしたのであろうかと慮られます。

黒川道祐(?~1691):江戸初期の安芸国儒医で名を元逸といった。儒を林羅山に学び、医を堀杏庵に学んだと伝えられる。擁州府志・近世京都案内・日次紀事などの著書あり

御詠歌の額

大日如来と地蔵尊を併記した御詠歌の額

【地蔵尊・大日如来・阿弥陀仏か鎌倉時代作で重文級】
お堂の額に「油掛 大日如来/地蔵尊 御詠歌」として「あさひさす日の出かがやく油かけ ただひとすじにたのめこそすれ」と掲げられている。明らかに大日如来を意識した御詠歌と言えよう。少なくとも三百年以上前から油が掛けられ、今見える御姿になる前は油でコテコテのムックリした油の塊で、外見だけではお地蔵様とは見えにくく、庶民の間では大日如来様かと思われていたようである。御詠歌が作られた時も、結局恐れ多いと両方を奉って大日如来/地蔵尊 としたのであろう。
・・・ところがである。昭和53年(1978年)8月22日に好井密雄堂主・佐野精一氏・小吹和男氏・地蔵奉賛会世話役の方々による石仏の油落しが行われた結果、総高170㌢、幅84㌢、厚さ40㌢の花崗岩製肉厚彫り、頭光背の線刻の内側に種字「サ」の「観音」と「サク」の「勢至」が彫られご本尊は阿弥陀如来坐像、身光背の線刻の外側と框の間、向かって右に「延慶3年(1310年)庚戌12月8日」左に「願主 平重行」と判明したのである。(調査の経緯詳細は「京の石仏」を参照されたい)京都で鎌倉銘の石仏はこれまで二体しかなく、何れも重要文化財・重要美術品に指定されており、この油掛の石仏も重文級の価値があるものである。これまでの2体は次の通り
① 弘安元年(1278年)銘 善導寺 三尊石仏 (重要美術品)
② 元仁2年(1225年)銘 石像寺 弥陀三尊石仏(重要文化財)

油掛地蔵さん【庶民の信仰 油掛地蔵さん】
地蔵堂は前面が開放され誰でも参拝でき、柄杓で掛けた油が垂れて床の一角に集められ何度でも掛けることが出来るように工夫されている。それと参拝者が多いのには驚いた。年配者から子供まで、通り掛った人がちょっと寄って油を掛け一心に拝んでおり、人々の厚い信奉心をつくづく感じたことでした。お堂の右側にも小さな可愛いお地蔵さんが置かれており同じように油が掛けられていたが聞いたところ個人所有のお地蔵さんとのこと。きっと我子の無事な成長を願ってのことでしょう。

【大地の恵みは大地の力に】
油掛地蔵さんの世話役で年配のご婦人のお話では、自治会が廃油回収日にこの地蔵尊に潅いで溜まった油や、地区の家庭から出る廃油とか賞味期限切れの植物油を集め、ドラム缶やポリタンクに回収して業者に引き取って貰っているそうである。今、京都市では市内800ケ所の拠点に年間12万リットルの廃油を回収し、バイオディーゼル燃料に加工しゴミ収集車や市バスを走らせているとのこと。排ガス中には硫黄酸化物がなく二酸化炭素排出削減に貢献する事で地球温暖化防止にも大いに役立ち、持続可能な循環型社会の構築に向けて大いに努力中とのこと。廃油は可燃ゴミとして廃棄しても焼却排ガスとして大気汚染を引き起こし、土壌に埋めても分解されず二次汚染を引き起こし、そのまま廃棄するとコップ一杯の廃油を浄化するには浴槽132杯分の水が必要とも言われています。
その昔、明かりとしての貴重な油を、庶民はささやかな願い事にかけて地蔵尊に潅いでいました。しかし今日では、大地から収穫され搾油・精製された「大地の恵みの油」は、私達の生活を大いに満たし現世利益
(栄養・成長・長寿)を満足させて来ました。しかし、ひとり一人の一寸した心無い行動一つで大気汚染・水質汚濁・土壌汚染等を引き起こし、逆に私達の生活に苦界(健康阻害・地球環境悪化)を与えることにもなります。地蔵尊に油を掛けながら、せめて大気も水も土壌も汚さず、バイオディーゼル燃料等に転換して地球温暖化防止にわずかながらでも貢献できるならば、それこそ「クシチガルプハ=大地の蔵する力」=地蔵尊の本当の心を少しでも理解することになるのではと思ったことでした。

京都続編をお楽しみに!!

参考図書:
杏の木のひとり言(山中恵美子著)河北印刷(株)
京の地蔵紳士録(岡部伊都子著)淡交社
京の石造美術めぐり(竹村・加登共著)京都新聞社
京の石仏(佐野精一著)サンブライト出版
京都市環境局バイオディーゼル燃料化資料より