和のあぶら

菜の花の便り 第五号 京口油問屋について

蕓 苔 子(うんたいし)

「奈良屋と松浪庄九郎の国盗り」
『マスは天竺須弥の山、あぶらは補陀落那智の滝、とうとうたらり、とうたらり、仏天からしたたり落つるおん油は、永楽善智の穴を通り、やがては灯となり、無明なる、人の世照らす灯明りの・・・』ぴたり!と最後の一滴が壷におさまった。

abura9_1時は永正十四年(1517年)、応仁の乱以来の戦乱で荒廃した京の都、かつて妙覚寺の法蓮房、還俗(げんぞく)して松波庄九郎、縁あって京の東洞院二条にある畿内有数の油問屋奈良屋の主人に納まった。この当時の油商は問屋も小売りも兼ねており、小売は店売りと行商があって、行商には麻の素襖(すおう)にくくり袴(はかま)をはき、天秤棒の両側に油桶をぶら下げて「おん油ァ、おん油ァ」と売り歩いたのである。”おん”と敬称がつくのは油の専売権を大山崎八幡宮がもっていたので、油屋にとってはただの油ではない『おん油=御神油』というわけである。庄九郎は油をマスにとり、節おもしろく唄いはじめた、たらりたらりと、やがて油はマスから七彩(ひちさい)の糸となってスーッと永楽銭(えいらくせん)の四角い穴に吸い込まれ、その下の受け壷に一滴もこぼれず注ぎ込まれた。・・・これまでは小説の一節です【司馬遼太郎の「国盗り物語」より】

搾油濫觴裏書に「老人雑話曰 斎藤山城守は山崎の油うりの子なり・・云々・美濃の国守となれり」とある

abura9_2「京都の油屋さんの移り変わり」
平安時代京都では、毎月十五日以前に「東の市(51店)」と十六日以後は「西の市(31店)」が開かれており、色々な商品のなかで燈明油も売られていました。庶民も貴族もこの市に来て日用の燈明油を調達していたようです。また、「販人(ひさぎびと)」と称して市中を行商する油商人もあり、大坂の遠里小野村から京都に油行商人が往来したりして、更には地方との行商も盛んに行われていました。鎌倉時代には大山崎から女性の油行商人が市中を売り歩いたなどと、よほど珍しかつたのか彼女の名前まで記録に残されています。大山崎の神人(じにん)を中心とした「油座」は、朝廷並びに幕府より「油司」の特権を得て、油の専売権をもって原料の仕入れから搾油・販売・輸送にまで及び、ほかに魚市・塩市・酒・麹(こうじ)などを兼業すまでになりました。京都に在住し油の神人として営業を認められた「住京の神人」は本来の大山崎神人「本所神人」とは権限に差があり、大山崎神人が洛中で商売をするときは、「在京の神人」は油の商いを控えていたそうです。また神人に加入するには朝廷或いは幕府に「新加神人放札注文」を申請し認可を得るという厳重な手続きが必要でした。後世この行事、大山崎八幡宮の「判紙祝儀の会合」という神事として形を変え執り行われました。

abura9_5応仁・文明の乱以来、戦国の世になると京都の市中は大部分が灰燼(かいじん)に覆われ、更に文明三年(1471年)「山名宗全」が山崎天王山に城砦(じょうさい)を築くなど大山崎もことごとく戦乱の地となりました。そのため大山崎の「油座」は急速に衰退し、更に織田・豊臣の時代になると、「楽市・楽座」の自由市場が形成されるようになり、大山崎の特権であった「油座」は崩壊の一途を辿りました。また、燈明油も荏胡麻油(えごまゆ)から菜種油に代わり、江戸時代には幕府の燈明油政策の中で、京都の燈明油もすべて統制支配されたのでした。

(応仁・文明の乱:1467~1477年 以来、約100年は戦国時代である)

abura9_3「自由経済のはしり京口油問屋について」
大坂は天下の台所として諸産物の集積・加工・積出し基地として大いに発展しました。元和二年(1616年)、諸国より油の買付に多くの商人が大坂に集まり、中でも京都・伏見・大津より来る油買い商人は引きも切らず、いつも大坂京橋三丁目の鹿島屋三郎右衛門の家を常宿としていたそうです。これが後世の「油宿」の始まりであり、当主の三郎右衛門は最初この油宿の主人に過ぎなかったのですが、その後自らも大山崎や近郷の搾り屋から油を買い集め、これを京都や伏見、大津の油買い商人に売ると共に、大坂近郷および諸国に商売を始め、「京口油問屋」として発展しました。また油商人達は此処を売買所として利用し三郎右衛門を仲介にして商売をしたのでお互いが非常に繁盛しました。このように「京口油問屋」は搾り屋と問屋との中に立ち売買・受渡の仲介をするのを本業としていたのです。

明和7年(1770年)大坂市中諸商業の法改正の令があり、特定業者として認可された「株」制度が出来ましたが、その株の冥加金(みょうがきん)を収めると共に「出油屋」13戸、「江戸口油問屋」8戸、「京口油問屋」3戸が決まりました。さらに天保3年(1832年)「出油屋」と「京口油問屋」、また急速に需要の高まる江戸への供給問屋「江戸口油問屋」の三者合同で「油問屋」を作り、改めて「油寄所」を設けました。そこでこの「油問屋」は燈明油・白絞油・梅花油(頭髪用水油)の製造が許可され、旧来からあった「油仲買」は従来の燈明油・白絞油・梅花油の調合を禁じられ、新たにこの「油問屋」より購入することなど営業範囲が決められました。但し、その後天保13年(1842年)には、この株制度も廃止され、油の取引も自由になり明治の商業自由化へ続いたのでした。【資料「黄金の花」より】

abura9_4さて、京都における油屋さんの動きはどのようであったのか、時代を追って見てみましょう。元禄13年(1700年)4ケ所の菜種御受所(集荷所)が設定され絞油仲間は二十軒あったと記録されています。元文元年(1736年)に70軒の絞油名前帳を町奉行に提出し、続いて安永2年(1773年)に絞油屋仲間70軒が公に許可されました。嘉永6年(1853年)には京都絞油仲間は81軒(古株50人・新屋31人)となり、万延元年(1860年)には92軒となりました。この嘉永6年の絞油仲間の名簿を見ると山中油店さんのご先祖である糀屋平兵衛(下立売智恵光院西入丁)さんが登場しております。

京都周辺の絞油屋で搾られた油は地元の消費に回され、余った種子や油は仲買商を通じて大坂に送られ、油が不足した時は逆に仲買商を通じ京口油問屋や近江国、大和国、丹波国から回送してもらっていたのです。江戸時代の京都に於ける油の生産量や消費量に関する資料は断片的で少なく、今後の調査研究に期待したいものです。

【資料は「京都の株仲間-その実証的研究―藤田彰典氏著」、「万延元年京都並近在絞油商売人名前帳」より】