和のあぶら

菜の花の便り 第四号

蕓 苔 子(うんたいし)

『関東流・大坂流油搾りくらべ』

『灘目搾り・灘油』
大坂の人力搾り「立木」では、五人(搾り人一人・明け人一人・踏み方二人・せがい一人)で菜種一石二斗を搾ったそうです。ところが明和七年(1770年)頃には、攝津国武庫莵原八部三郡(鳴尾・今津・西ノ宮・深江・魚崎・御影・東明・新在家・大石・脇ノ浜・二ツ茶屋・神戸・兵庫)の所謂「灘」では、六甲山系の谷水を利用した水車搾りが盛んになりました。
炒った菜種を水車の力で粉にするので手間がかからなくなりました。搾った油は人力搾りの油となんら変らなかったのですが、油の抜け方が悪く、粕の値段は人力搾りより少し劣っていました。しかし人力搾りにくらべ多く搾れることから、水車搾りの採算は非常に良く灘目の水車搾りは大変盛んになりました。当時同じ五人(搾り人一人・添槌一人・親司一人・下働き二人)で約3倍の三石六斗が搾れたと言います。
(注釈:”明け人”は原料・粕をあける人、”せがい”は炒りと篩い手のこと、
“親司”は親方監督のこと)

『大坂立木搾りの流派』
「立木(たちき)」による搾油は、動力が人力から水力・蒸気力・電気力と変わりながら寛政年間から明治末期まで各地で続けられ、欧米諸国より各種機械式搾油機が輸入されるまで、我国の搾油業界を独占して参りました。大坂では同じ「立木」による搾油でも平野流(菜種一石八斗乃至二石を二度にて搾り上げる)、堺流、天満流(菜種一石乃至一石二斗を三度で搾り上げる)などの各種の流派がありましたが、何れも大同小異のものであったそうです。

『立木による搾り方』
種子を莚(むしろ)に広げて干し、次に鍋で炒って、碓(うす)で踏み、粉とし篩(ふるい)にかけ、残り粕を再び粉にし、粉を桶(おけ)に入れます。そして甑(こしき:蒸し器の一種)【関東では「蒸籠(せいろ)」】に入れて蒸してから、袋に包んだその粉を臼(うす)【関東では「坪(つぼ)」】の中に入れ、金輪を重ね立桟(たてざん)をはめ、その上に正當石(しょうとういし)を置き、更にその上に古い袋の切れを敷き、立木【けやき作り関東では「立柱」、西国では「鳥居」】に貫(ぬき)【関東では「棹(さお)」】を通し、矢をはめて槌(つち)で両方から矢を打てば油が桶の中に垂れるという大変苦労の多い労働でした。
(関東あたりにては二度にも休みては打ち打ちすれども大坂にては一しきりに打ちきる・・・清油録)

『菜種の炒り方』
大坂では、前もってできるだけ種子の粒子を揃え、未熟種子は避けて最初は浅く炒り、二番搾り以降の炒りは粒に少し皺がよるくらい十分に炒るようにしていました。それほど大坂では菜種の炒り方に工夫を凝らしていました。ところが、関東や中国・四国・九州では菜種をきつね色になるまで深く炒っていましたので、そのようにして炒りすぎた菜種は、油の収量も少ないだけでなく、色も赤みを帯びて品質が劣り、大坂流搾りとは油の収量・品質とも格段の相違が生じておりました。
(関東・西国の油は大坂搾りの油にくらぶれば、晒油とさらさざる油ほど色違へたり・・・精油録原文)

『最後の仕上げ搾り「揚(あげ)」』
仕上げの三番搾りを「揚(あげ)」と言いました。この工程をおろそかにすると、油分が粕に残り肥料の効果も少なくなります。当時、各地では搾油業が盛んに行われていましたが、その「揚」をおろそかにしており、この点に目をつけた大坂の搾油業者はこのような菜種粕まで仕入れて、もう一度搾油して「菜種一石分の粕から油二升も搾りだしていた」といわれていました。それほど大坂搾りの油は品質と収率にこだわっていたことが分かります。(なにわの才覚は素晴らしかったわけです)
(注釈:菜種一石分から取れる粕か、一石の粕か判断に苦しむが精油録の原文のとおり記載した)

(参考:精油録)