和のあぶら

菜の花の便り 第三号

蕓 苔 子(うんたいし)

『油断大敵・江戸も京都も明かりは大坂から』
およそ百万都市江戸の人々にとって、日常生活の必需物資である米に次いで最も多く消費されていたものが燈明油でした。幕府はこの燈明油の価格変動を抑制しつつ生産供給基地である大坂の統制を強行してきました。しかし絶えず油価の暴騰や油切れなどに悩まされ、幕末まで統制政策を続けざるを得ませんでした。一例を示すと「享保十四年(1729年)には木陰、畔岸などに菜種を少しでも植付けせよ、明和八年(1771年)には菜種やその外の草木の実で油の搾れる物は何でも増産せよ、天保五年(1834年)には荒地・川縁に至るまで植付けせよ」と「御触れ」を出して燈用植物の殖産を呼びかけていました。
元禄五年(1692年)の『諸国万買物調方記』には「京都の油はおおかた大坂の油を用いて、地の油はしぼらず」と記されています。京都といえども種子や油はすべて幕府に統制され、一度大坂に集められ搾られてから京口問屋を通じて燈明油の供給を受けていたのです。

『京の都も花盛り』こんな風景も幕府の燈明油政策のお蔭でしょうか
菜の花や壬生の隠れ家誰々ぞ(蕪村)、菜の花やこの辺りまで大内裏(旧平安京内裏跡)(召波)、蕪村など江戸時代の俳人が活躍した頃、洛中まで菜の花が咲き乱れ、春の夕暮れ辺り一面それは黄金色に染まり、朧にかすむ塔や寺々の甍と夕日に染まった東山山麓は、さながら一幅の絵画の風情をかもし出していたかと思われます。そんな洛中から東山、桂、鳥羽、伏見、淀にかけては、さぞかし一面、菜の花に埋め尽くされていた事でしょう。また維新の夜明け前、新撰組の沖田総司や土佐の坂本龍馬、長州の高杉晋作らが美しい菜の花の野に何を思い駆け抜けて行ったのかと思い起こされます。

山中油店のべんがら格子

菜種油で磨き込まれた山中油店のべんがら格子

『油断大敵・江戸の明かりは大坂で』
幕府が江戸の年間燈明油消費量を調査したところ、「長夜」で一日に300樽、「短夜」では一日に200樽、年間9万6000樽と見込んでいました。これは(当時1樽3斗9升入り換算でした)概算約6、050トン/年の消費量となります。天保四年(1833年)、江戸に回漕された油は11万5000樽(約7、300トン)にも達しましたが、その生産地は大坂34%、灘目27%、尾張・伊勢・三河28%、播磨1%、江戸地廻り10%ということで、江戸の明かりの大半は西日本に大きく依存していたことがよく分かります。
明暦年間の大火災の後、大坂よりの「下り油」が減少して江戸では燈明油が暴騰したため、江戸の油仲間は協議して霊岸島に「油仲間寄合所(東京油問屋市場の前身)」を作り大坂からの大量仕入れを進め、安定供給に努めましたが、それでも2~3回は江戸の燈明油が切れたことがあったそうです。記録:文政9年(1826年)江戸では『油切れ』の大騒動があった。

油が切れると・油断大敵・お江戸はまっ暗やみ!
油断大敵「油を覆せば罰して生命を断滅せらる故に注意を怠るを油断といふ(涅槃経より)」

『くだる』と『くだらない』話
江戸時代までは京都を起点に「上る(のぼる)・下る(くだる)」と言われていました。だから京都に行くことを「のぼる」と言い、江戸に行くことは京都から離れるので「くだる」と言いました。(京都に上ることを上洛という)
江戸は武士や町人等の消費者集団によって形成された大都市であって、その生活物資の殆どは他の生産都市からの供給に頼らなくてはならなかつたのです。特に米、油、綿、木綿、酒、塩、醤油等の多くは天下の台所大坂から補給され、菱垣回船や樽回船で海路「下り物」として江戸に運ばれたのです。江戸の人々にとって「油」は「下り物」として大変貴重なものでした。逆に何時でも入手できる物を謙遜し「下らない物」と言っていました。
今日の日本そのものが133年前の江戸時代と同じ様に、衣食住のどれをとっても殆どを「外国からの下り物」に頼っています。かつての石油ショックや米の不作騒動も記憶に新しいところですが、資源の少ない日本にとって物や自然に対する価値観を今一度考え直し、「油」に限らず人や物や環境を大切にする気持ちを育てたいものですね。

(菱垣回船:荷崩れを防ぐのに縄で菱垣に結んだとか船腹に竹菱垣をしていたとのことから菱垣という)
注記:文中の大坂につきましては、改名(明治以降大阪)以前の文字を用いました。
参考: 一石=十斗 一斗=十升 一升=十合

一升=1.8リットル≒1.62kg (比重0.9として)