和のあぶら

菜の花の便り 第二号 菜種の伝来と搾油

蕓 苔 子(うんたいし)

菜の花『ウラータイショウ』
NHKの大河ドラマ高田屋嘉兵衛「菜の花の沖」の最終回を皆さんご覧になりましたか。瀬戸内海は淡路島、辺り一面菜の花畑で嘉兵衛が「ウラータイショウ(万歳大将)」と大声で叫ぶ場面を思い浮かべました。高田屋の場合は北前船による蝦夷との交易ですが、当時菜の花の咲く淡路島では収穫した菜種を対岸の兵庫灘に集め「灘目水車搾り(なだめすいしゃしぼり)」で粉に挽き、それから菜種油を搾り「江戸積問屋」を通じ「菱垣回船(ひがきかいせん)」で江戸へ燈明用の油を回送していたのです。江戸末期に菜の花の俳句や歌が急に庶民のレベルで表現され、日本各地で菜種が急速に栽培されるようになったのはどうしてでしょうか。菜種が渡来し栽培され「菜」としての食用から「種子」を収穫し油を絞るに至った歴史を追うことにしました。

『菜種の伝来』
菜種の花は「アブラナ科の植物」で四枚の花弁が十字形に配列していることから「十字科植物」と呼ばれています。大根、かぶら、白菜、キャベツ、小松菜、辛子菜、タカナ、カリフラワー等はすべてこのアブラナ科に属します。アブラナの原産地はド・カンドル(de Candolle)の『栽培植物の起源』によれば、スカンジナビア半島からコーカサス地方ならびにシベリアに至る地域でその野生種が見出され、これらの地域が原産地と推測されています。
シベリア経由で中国には紀元前に既に伝播していたようであり、日本には大陸との交流も盛んになった五世紀後半頃(450年頃)には伝来して、飛鳥時代にはこれら食文化も既に伝わっていたと推測されます。

『福岡七熊油山伝説』
伝説によれば福岡市外の七熊に油山と呼ばれる海抜千メートル余の丘陵があり、遣唐使(650年頃)によりもたらされた「菜子」をこの地に植え、後世、菜種子の繁殖の道を開いたと言われています。勿論当時はその茎・葉を食用として栽培したものと思われます。

『春の七草』
光孝天皇(885年)の有名な百人一首の和歌に「君がため春の野にいでて若菜摘むわが衣手に雪はふりつつ」とありますが、この「若菜」は「春の七草」の「スズナ、スズシロ」のことでしょうか。「スズナ、スズシロ」はそれぞれ「かぶら、大根」のことで十字科植物のアブラナ科です。勿論、かぶら油とか大根油も種子さえあれば搾ることは可能ですが、採油されたことは歴史上見出だされていません。{春の七草:延暦23年(804年)皇太神宮儀式帳に記録されている(芹、ナズナ、五行、はこべら、仏の座、スズナ、スズシロこれぞ春の七草)}

『荏胡麻と菜種の戦国時代』
足利義政の宝徳三年(1451年)の時に朝貢使允澎の入唐記に「油菜(あぶらな)」の文字を見ることから中国では「油菜」が食膳に供されていたことがうかがわれますが、これを日本に持ち帰った記録は見出されていません。その後安土・桃山時代に入ると、自由都市堺と九州博多等が海外貿易港として開け、朝鮮や中国からこれら油菜や綿花などの輸入と、その油脂原料としての利用方法が伝えられたと見受けられます。(元亀年間(1570年頃)南蛮貿易盛ん)

菜種油

山中油店では、今でもお灯明用の菜種油の量り売りをしています

『菜種油の天下とり』
織田信長による自由取引「楽市楽座の制度」により、寺社・公家の保護を受けていた大山崎の油座も衰退の運命となり、更に豊臣秀吉による天正11年(1583年)大坂城の築城とともに城下町の発展を図り、「遠里小野(おりおの)」の油商人を移住させ油絞所が出来ました。衰退の域にあった大山崎の油商人も新興大坂に移住する事により、いよいよ大坂は日本における製油の製造、販売の一大拠点となり急激な発展を見せ始めました。 その後徳川幕府になり、燈明油政策として大坂を中心に種子の集荷・搾油業を更に集中させるようにしたため、いよいよ盛大になりました。

菜種の炒り鍋

店頭にディスプレイされている菜種の炒り鍋

『菜種油のはじまりと搾り機の変遷』
菜種油が我国で搾油された年代は明確でなく『清油録(大蔵永常著)』の記述をみると『攝津国住吉の辺り遠里小野村の若野氏某がはじめて蕓苔子(今いふ菜種子なり)を製し清油をとりて従来の果子の油にかえて住吉明神に献じ奉れり、皇国菜種子油の原始なり』(原文)とあります。
それまでは山城国大山崎八幡宮の荏胡麻を搾る「長木(ながき)」が一般に使用されていましたが、遠里小野の若野氏某が考案した「檮押木(おしき)」により菜種が搾油され、明暦年間(1656年頃)には改良が加えられて、矢と称する楔(くさび)を打ち込む「立木(たちき)」が開発されました。
また菜種油は従来の荏胡麻油に比べてはるかに優れた燈明油であったため一層普及するようになりました。前述したように大山崎の荏胡麻油は衰退し、また元和年間(1615年頃)には綿実の「黒油」が搾られ、更に「白油(白油濫觴)」の技術が開発されたときには既に菜種油が燈明油の大座を占めていましたから、結局、菜種油の搾油は1570年頃の自由貿易盛んな頃から大坂築城の1583年頃の間に始まり急速に広まったと推測されます。

フローラルコート

時代劇の撮影現場 フローラルコートにて

『どこを向いても菜の花盛り』
その後国も安定し、幕府の積極的な燈明油政策もあり大蔵永常が文政から天保のはじめに掛け菜種栽培を幕府に献策したことも大きく、菜種油は全国的に広まり全盛期を迎えることになりました。またその頃大坂に集中していた搾油業も関東地域でも開始され、菜種油・綿実の搾油も盛んに行われるようになりました。(1800年頃幕府の統制も崩れはじめた)
かのシーボルトの『江戸参府紀行』を読むと、彼が文政9年(1826年)の春、長崎から江戸へ向かう途中、船で過ぎた瀬戸内海沿岸や、播州室の津から大坂までの陸路の途中などで目にした菜の花畑の美しい光景が、感動を込めて繰り返し描かれています。(植物語源随想より)