和のあぶら

菜の花の便り 第一号

蕓 苔 子(うんたいし)

灯明

山中家で使用している御灯明

「お水取り」で名高い奈良東大寺二月堂の「修二会(しゅにえ)」の行事は、既に2月20日から戒壇院の別火坊に十一人の練行衆が籠って「別火(べつか)」と呼ばれる前行が始まっています。更にそれに先立つ2月18日には「修二会油量り」の作法が行われました。  これは、修二会の「本行」中に使う燈明油の量を計って油壺に入れる作法で、三斗五升の油を三つの壺に分け、封印をして礼堂に本行が始まるまで置かれてあります20日から25日までは「試別火(ころべつか)」と呼ばれ、須弥壇を飾る「つばき」の造花を作る花ごしらえや灯明に使う各種灯心の準備などがありました。  また、3月12日から14日までは有名な「ダッタンの秘法」と呼ばれる「おたいまつ」の荒行が執りおこなわれます。『水取りや瀬々のぬるみも此日より』さあ、いよいよ本格的な春到来ですね。

春と言えば『菜種前線』の話があります。養蜂業者(ようほうぎょうしゃ)が菜種の花の蜜を追って鹿児島から次第に筑前、山陽、近畿へと北上しながら大阪の油問屋に立ち寄って、その年の菜種の作柄情報を伝え、大阪の油屋はその情報で菜種の買付け価格の値踏みをしたそうです。

菜種油また、大阪の南河内の柏原市玉手山安福寺には江戸時代の石丸石見守(いしまるいわみのかみ)の墓所があり、昭和20年近くまでも大阪の地方絞り(じかたしぼり)業者や油問屋の諸氏が石見守の供養をした後、玉手山山頂に集まり、手弁当の昼食をとりながら河内和泉平野の菜の花を見下ろして、その年の菜種の作柄を評価して1日の行楽としたと言われています。
(石丸石見守:江戸時代寛文3年より17年間大阪の東町奉行として在任し、諸商業問屋仲間の制度を確立するなど手腕を発揮し、特に絞油問屋仲間から多大な信望を得ていた。)

さて、この時期になると京都、大阪では『菜の花モロコ』の季節と言って琵琶湖や瀬田川の川魚「モロコ」が旬(しゅん)で一番おいしい時期だそうです。モロコの天麩羅、菜の花の和え物、菜の花の汁物とくれば、まずは「伏見の銘酒」で一杯と言ったところでしょうか。「モロコ」が終わると次は明石の「さくら鯛」で、いよいよサクラ本番の春到来です。

また、伏見より淀川を往来した「三十石船」はもとより、江戸時代には既に『野崎参り』の野崎観音(慈眼寺)も大層有名でした。土手伝いの陸路、屋形船での船旅とも大阪から日帰りできると参拝客であふれたそうです。この寺は近松半二作の浄瑠璃『新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)』の『大阪瓦屋橋の油屋お染・久松の悲恋』や落語『野崎参り』で知られた名所で、落語の船旅では天満橋から屋形船に乗り野崎観音まで揺られて参るのですが、陸路参りとの面白いやり取りが聞き所です。昭和10年東海林太郎(しょうじたろう)氏の有名な『♪野崎参りは屋形船でまいろ どこを向いても菜の花ざかり・・云々』の『野崎小唄』が全国に大ヒツトしました。

菜の花菜の花に関する歌は明治、大正時代の懐かしい童謡・唱歌に『菜の花ばたけに入り日薄れ・・』とか『ちょうちょ ちょうちょ 菜の葉にとまれ・・云々』とあります。また、江戸時代の与謝蕪村の句に『菜の花や月は東に日は西に』と詠われております。古川柳に『たねあぶら幼馴染みの蝶が来る・・作者不詳』と詠まれ、昔から蝶と菜種は縁があるようですね。

小林一茶の俳句に「遠里(とおさと)や菜の花の上のはだか蔵」(寛政6年1794年)と詠んだ句があります。「遠里」が攝津国住吉の遠里小野村(おりおのむら)のことであれば、「菜種の歴史」にも関連しますので、次回「油の話~菜の花の便り『菜種の伝来』」を楽しみにして下さい。